長編小説『エンドウォーカー・ワン』第6話
「行きましょう」
準備を終えた一行がミルヴァに率いられ広葉樹の植えられた街道を急いだ。
空低くから少しずつその存在を現し始めてきた「太陽」の霧のような弱い光が厚い外套を照らし出していく。
ベルハルトは先を行く母娘の背中を早足で追いながら空を仰ぐ。
そこにはまだ夜の気配を色濃く残した漆黒に近いディープブルーが一面に広がっていた。
ベルハルトにはあの頃二人で見上げた空がやけに遠く感じた。
背後から急かすように吹き付ける寒風が少年の哀愁めいた感情を煽った。
言葉少なげに最寄りの駅まで進んでいく避難民たち。
つい先日、テロリストが射出に失敗したロケット弾で半壊した二階建てがベルハルトたちの左に流れていく。
サウストリア政府が昨晩の国営放送で「市内での車の移動は避けるよう」再三にわたり通告していたが、片側一車線の道路は車で埋まり、歩道は市民たちで溢れかえっていた。
「二週間内の避難だというのに……」
ミルヴァが辛うじて秩序の保てている風景に嘆いた。
両軍合意の元、期限付きの人道回廊が設けられ、武力衝突地帯に程近いサウストリア国民たちは国内中央部などに避難を急いでいた。
「押さないように落ち着いて避難してください。まだ時間は十分にあります」
交差点には都市迷彩柄の装甲車両が停車しており、その屋根上に立った軍人が拡声器で同じ言葉を何度も繰り返していた。
遠くには雷鳴のような音が幾重にも重なり、腹の底を揺るがしている。
軍人の先の言葉とは裏腹に北の手はすぐそこまで迫っている――それがイルデ市民たちの不安を加速させていた。
泣き出す赤子、幼児。
それをなだめる者、叱りつける者。
まだ幼いベルハルトも頭が冷ややかな空気で萎縮し、脳を真綿で締め付けられているような錯覚に陥って思考力を奪われていた。
刹那。
彼らの脆い心を引き裂かんとばかりに轟音が鳴り響き、黒い影が低空を過る。
「ノーストリア軍機だ!」
群衆から声があがり、彼らは一斉に空を仰いだ。
「航空優勢じゃなかったのか!?」
「見ろ! 何か落としたぞ!」
影から生み出されたものはみるみるうちにその姿を顕わにし、白い傘を開いて地上に降り注ぐ。
それはWAWと呼ばれる人型歩行戦車。
「降りてくるぞ! みんな離れろ!」
濃緑色の森林部迷彩が施されたWAWが着地寸前のところで落下傘を切り離し、機体背面部に取り付けられた推進力を生みだすブースターユニットが火を吹いた。
車体を動かすほどの凄まじい風量、何千度という燃焼ガスが舗装道路を赤く焦がす。
民衆は蜘蛛の子を散らしたかのように退避した後だったのでその時点で負傷者は居なかったが、全長4メートルほどになる鋼の巨体を前にあれだけ騒がしかった場はしんと静まりかえった。
「……班長。逃げますか?」
避難誘導をおこなっていた装甲車の運転手が車体上部で拡声器を持ったまま口を開いていた男性に問いかける。
「ばっか。銃口向けられててどうやって逃げるんだよ」
下から聞こえてくる呑気な声に対し、班長は口の端を折って厚手の軍用ブーツで装甲を蹴りつける。
街の大通りに降下してきたのはノーストリアの3機。
統率のとれた彼らは防御円陣を組むと、外部スピーカーから「聞こえるか、サウストリアの民よ」とノイズ混じりの体温を感じられない声を響かせた。
「こちらノーストリア第一空挺師団。戦闘は終了し、当市は我々が掌握した。無駄な抵抗は止めることだ」
あまりにも突然の出来事に市民たちは身体と思考を硬直させる。
「ですって、はんちょー」
「エリートさんがこんな地方都市に何の御用かねえ……」
国防軍は早々に戦意を喪失し、拡声器を屋根に置くと降伏の構えを示した。
それを見届けたかのように北方向から無数の輸送機が飛来し、次々に白い傘を青空へと落としていく。
北軍は「速やかに自宅へ戻り、外出は控えるように」と言い、通りに停車したまま装甲車に巨大なライフルを押し付けた。
「人道回廊が敷かれているんだぞ!? 我々を避難させ――」
皺の寄った気難しそうな男性が声を張り上げた次の瞬間。
場が震え、大音響がビル群を揺るがして市民たちに同調するように硝子も悲鳴を上げる。
「イリアっ」
砂塵舞い散る中、ベルハルトは反射的に少女を押し倒して上に覆い被さった。
断続的に吹き付ける暴風や轟音から小さな身体でイリアを護る。
突然のことに紅い目をぐるぐると回していた彼女だが、奥歯をきつく噛んで耐えているベルハルトを見、思わず息を飲んだ。
曇り一つない夏空色が目の前の少女ではなく、どこか遠くを見つめていた。
それがベルハルトの小さな覚悟と決意の顕れであることをイリアはまだ知らない。
突如空に向けて発砲したノーストリア。
イルデ市民たちの間に混乱が一瞬で広がり、場は騒然となる。
「白旗でも振ったほうがいいんでしょうか」
「お前、今から作る気か? 止めとけ、やめとけ」
屋根に顔を覗かせた運転手の頭を班長は押さえつける。
その日、サウストリア国防軍はイルデ市から撤退し、市はノーストリアの支配下に置かれるのだった。
執筆・投稿 雨月サト
©DIGITAL butter/EUREKA project
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