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55 最終話

 千歳の意識は仮想空間とも現実ともいえない空間に立ち尽くしていた。

 交通標識のようなオブジェクトが表示されたかと思えば、目にした瞬間消えている。

 車のオブジェクトが表示されたかと思えば消えている。

 夢を見ているかのような光景だったが、まあ、仮想空間は夢を見ているのと大差ないと言う人もいるくらいだし、何かエラーが起きればこうして意味不明な風景が映し出されるのだろう。

 ただのバグ、とらえどころがないと言う表現が正しい。

 が、はっきりと目視できる唯一の存在が、ポツンと一人立ち尽くすモニカだった。

 千歳
「これは、どうなってる?」

 モニカ
「分からない。ただ、何かアクセスに誤作動が起きたみたい。さっき投票で負けたらペナルティを受けてもらうって言ったけど、あれはただの演出だから。ステージの上のお約束。私は何もしてないよ」

 モニカは自身の潔白を表明するが、千歳にとってそんなことに興味はない。

 千歳
「まあ、そうだろうね。人に危害を加えたらその時は罰が重いし」

 モニカ
「そんなことより、聞いてくれない? 実はあなたがログアウトしてからみんなと話したんだ。そしたら、多くの人が支持しないに入れたんじゃくて、千歳さんの話に感動しちゃったから何もボタンを押せなくなっちゃっただけだったの。千歳さんの言葉は、ちゃんと皆に届いて、皆を感動させてたよ」

 千歳
「そっか。それはよかった。とは言っても、結構酷い理屈だけどね」

 モニカ
「そうかな? 私が言うところの正義も相当ひどいよ。それこそ、これこそ千歳さんの言う悪より悪いと思う」

 千歳
「じゃあ、なんであんな理論を?」

 モニカ
「私ね、生まれつき家族が悪い仕事をして私を育ててくれたの。だから、私がやってる悪いことも叱らなかった。だけどね、そんな中で、私がとっても悪いことをしたら誰が叱ってくれるのかわからなくなっちゃって。だから、少し悪戯をしたの」

 千歳
「家族が悪いことを? 一体どんな家庭がそんなことをするんだろうね?」

 モニカ
「千歳さんには言えないかな。私はアイドルだから、プライバシーは守られてるの」

 千歳
「確かにそうだ。追及しちゃいけないね」

 モニカ
「でもね、私はそんな家族を助けたくて、本田さんをいろんな形で応援したの。どんな手段を使ってでも、私の家族を少し楽な状態にしなくちゃいけなかった。新しい家族を迎えられれば家族の負担も減る。そうしたほうがいいくらい、私の家族は毎日大変な思いをしてるの」

 千歳
「ふーん、それは大変だね」

 モニカ
「でも、私が悪いことをしたことは千歳さんがきちんと叱ってくれたから、今はそれで満足かな? あとは、現実で投票が行われて、結果を待つだけ。やれるだけのことはやった。そして、千歳さんが現れて私が加担してる悪事が思いもよらない形で邪魔された。私だって本当は本田さんを誘拐したかったわけじゃないけど、千歳さんが頑張ってくれたから誰も傷つけずに済んだの。本当にありがとう」

 千歳は撃たれて倒れたわけだが、モニカの言う誰もに千歳が含まれないのは謎だが、モニカは千歳に感謝の言葉を述べると、データがブロック状に分解されてこの場から消えようとしていた。

 千歳は、データとして現れるとこうやって消えるんだな、と勝手に思ったが、そんなことよりどうして何も操作してないのにステージの上からログアウトすることになったのかわからないでいる。

 当然、モニカにもわからない。

 とはいえ、パソコンが突然シャットダウンするとか人工物がうまく機能しないなんて言うのは現実でよくある話なので千歳は気にしていないが、何はともあれ真っ暗闇の中千歳は一人取り残された。

 気が付くと、病院のベッドの上にいた。

 今度こそ知らない天井だった。

 一体どうして病院にいるのだろうか?

 
「おはよう、目が覚めたね」

 千歳
「俺、どうしたんだろう?」

 
「過労で倒れたんだって。仕方ないよ、ここ数日、すごい激務だったんだから」

 千歳
「そっか、少しまとめて休暇をもらわないとダメかな?」

 
「病院の先生が言ってたけど、肋骨はもう大丈夫らしいから、あとは気持ちが回復するのを待つだけだよ」

 千歳
「気持ちか」

 
「千歳君、毎日大変だよね」

 千歳
「そうだね、大変だね。でも、こういう仕事をやらないと食べていけないしね」

 
「食べていくためだなんて、嘘だよね。お金はクローゼットにたくさんあるし、千歳君はもうそんなに頑張る必要はないんじゃないかな?」

 千歳は天井ではなく梓の顔を眺めてみた。

 少し、悲しそうな顔をしていた。

 千歳
「どうして悲しそうな顔をしているんだい?」

 
「千歳君が辛そうな思いをしているから」

 千歳
「どうして俺が辛そうな思いをしてると悲しくなるの?」

 
「だって、友達じゃない。いいえ、友達以上の関係じゃない。私と千歳君って。クラスの皆にも優しくしてくれるし、他の皆だって千歳君をクラスメイト以上の人だと思ってるよ。だから、千歳君が辛そうだったらみんな悲しいの。わかるかな?」

 千歳
「わからないなあ」

 
「どうしてわからないんだと思う?」

 千歳
「そうだね、心が麻痺してるから。麻痺してるから、昔はそれなりに想像力があったんだけど、梓さんが何を考えてどんな気持ちなのか、痛みを失った俺にはわからないや。少し変な話かな?」

 
「大丈夫、変じゃないよ」

 千歳
「まあいいや、疲れて倒れちゃったから、しばらく休まないと」

 この時、梓の表情が歪んだのが、千歳の両目に映った。

 悲しそうな表情だったが、それに加えて、言い表せない苦しみを内側に抱えている人が覚えるであろう感覚を露わにした時の表情だ。

 それをなんと名付けるべきなのか千歳にはわからないが、梓は千歳を見て本当に苦しそうだった。

 千歳
「ごめん、俺、梓さんの前にいるだけで梓さんのこと傷つけちゃうね。こんな生き方しかできなくてごめん」

 
「うん、大丈夫、平気。平気じゃないけど、今は耐えなくちゃだから。でも、そろそろ耐えられないかな? 今まで千歳君が心をすり減らしながら過ごした毎日を見て、私も苦しいよ」

 千歳はそんな梓にどんな言葉をかけていいのかわからなくなった。

 わからないが、梓は梓なりに千歳のことを想ってそう言ったのだろう。

 今の千歳は異常だと。

 だが、いくら異常と言われようとも、生まれつき貧困で、親もいない。

 そんな人を誰かが助けようとはしてくれないのだ。

 この国に住む人間はどこまでも自己中心的であり他者を助けようとは思わない。

 だから、生きていくつもりなら悪いことに身をやつさなければならない。

 千歳
「俺、将来どうなるんだろうなあ?」

 ぼそっと、そんなことを話した。

 が、梓はこう答えた。

 
「大丈夫、未来はずっと先だよ。そんなに遠い未来のことなんて考えても意味ないって。千歳君は、今の毎日に喜びが必要だと思う」

 千歳
「そうだね、確かにその通りだ」

 千歳は、クラスメイトと毎日過ごすこの日常がそれなりに楽しいのだが、梓からしてみたらもっと楽しい毎日を送ればいいのに、ということか。

 それもそうだな、と千歳は思った。

 ここ数日働きっぱなしだ。

 そろそろ肩の重荷を下ろして立ち止まってもいいころなのかもしれない。

 仕事のスケジュールを詰めすぎれば倒れてしまうのはどんな仕事であれ自然な話だ。

 千歳は、自分自身を大切にしようと思った。

 千歳の言うところの悪で、千歳は自分自身を守れていなかったな。


 次の日、病院で一晩明かして千歳は自宅に戻るのだった。

 日付を見ると12月の26日だった。

 確か仕事を始めたのが24日の夜からだから、25日は一日中眠っていたらしい。

 帰り道、家で待っているはずの梓に何か買ってあげられないかと思ったが、今は自分自身のためにアーモンドチョコレートを一つ買った。

 家に帰ると、終業式で忙しい他の家族は家を出ており、千歳は一人でくつろぐのだった。

 年末年始は警備の仕事も学校も、裏の仕事も物部の計らいでお休みだ。

 千歳は純粋な休日を数年ぶりに味わうだろう。

 悲惨な毎日だったが、そういう毎日の中にも多少の喜びはあるものだ。

 千歳は心が死んでいるので何も感じないだろうが、この時間が過ぎていくことを心地いいと感じた。

 12時を回ったころ、玄関に鍵が刺さり扉が開いた。

 百々が帰ってきたのだ。

 百々
「あ、お兄ちゃん、お帰り」

 千歳
「ただいま。百々もお帰り」

 百々
「大丈夫だった?」

 千歳
「おかげさまで。冬休み休めばばっちりだよ」

 百々
「そっか、よかった」

 千歳
「百々のお仕事はお休みになる?」

 百々
「うん、実家に帰るってお知らせしておいたから、しばらくお仕事は休みだよ」

 千歳
「そっか」

 百々とは生まれながらにして一緒だが、そういえば、梓は千歳の心が麻痺していることを伝えようとしていたな。

 だから、百々が普段どんな気持ちで過ごしているのか、千歳は灯台の下が暗いのと同じ理由で知らないでいるのかもしれない。

 千歳
「仕事のほうはどう? 楽しい?」

 百々
「うん、24日の夜に仕事だったんだけどね、とっても嬉しいことがあったんだ」

 千歳
「ふーん、どんな?」

 百々
「あはは、詳しいことは教えてあげられないな。私のお仕事はほかの人には秘密にしてくださいって言われてるから」

 千歳
「そっか。仕事じゃ仕方ないね」

 仕事だから仕方ないか。

 千歳らしい考え方だな。

 そういえば、モニカというインターネットアイドルは家族が悪いことをして自分を支えてくれていたと告白した。

 そして、百々も仕事はしているが千歳のやっている悪いことがなければ生きていけない存在だ。

 二人の姿が、何故だか千歳の中で重なった。

 そういえば、千歳は百々がたまにやる悪いことを叱ってやれているだろうか?

 そう考えて、千歳は百々にこういうことを言うのだった。

 千歳
「百々、普段から人に優しくできてる?」

 百々
「どうして?」

 千歳
「そうだね、お兄ちゃんが悪いことしてるのは知ってるだろ? だから、百々が悪いことをしてもお兄ちゃんは人のこと言えないからさ。でも、百々には悪いことをあんまりしてほしくなくて。でも、お兄ちゃんが言えることじゃないよね」

 百々
「ううん、言えると思うよ。だって、世の中に良い人も悪い人もいないもの」

 千歳
「へー、じゃあ、どんな人がいるの?」

 百々
「良い人はいないけど、良い人になろうって頑張ってる人がいる。お兄ちゃんもそういう人でしょ?」

 千歳は、その言葉に息が詰まった。

 確かにそうだ、千歳はそれほど悪人ではないものの、善人でもない。しかしながら、善人に近づこうとはしている。

 だから、千歳は善に近づこうとしている人間ではある。

 この世界に正義も悪もないかもしれない。

 いや、悪が千歳のような人であるなら、それほど悪人は悪ではないだろう。

 だからといって善人がたくさんいるわけではない。

 ただ、正義に近づこうと尽くしている人がいるだけだ。

 千歳は、これからも正義に近づこうと尽くすと心に決めたのだった。



 デジタルアートセンター横浜メンバーの小説『無名の迷宮』は、これにて完結です。6月30日(金曜)から毎日(営業日)休まず投稿を続け、全55話の物語を本日、無事に完結させる事ができました。応援して下さった事業所の皆様と、作品を御覧下さった読者の皆様に、深く感謝を申し上げます。ありがとう御座いました!

校正


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