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夜明けは天使とうららかに 1-2

〇 〇 〇

 何かが背中に当たった。

 三時間目の社会で、先生に急用ができたからと自習になった時だった。

 僕は思わず後ろを振り向いたけど、みんな配られたプリントを解いている様子だった。気のせいかな、と思って僕もプリントに向かうと、二問ほど解き進めたところでまた背中に何かが当たった。今度は笑い声を押し殺しているのが後ろから聞こえた。

 冷えた感覚が全身をザッと駆け巡った。

 プリントに書いてある文字が、見えるのに読めない。

 何をされたのか、言葉にしたくない。

 だってそれは、あまりに恐ろしい三文字だから。

 けれど、僕はその三文字を意識しないといけなくなる。


 廊下を歩いていたら急に背中を叩かれて、それから周りの人たちがジロジロ僕を見るから、背中に手を回してみると『僕はマザコンです』と書かれた紙が貼ってあった。体育の授業から帰ってきて、上履きを履こうとしたらそこに画鋲が入ってた。体操着を着替えようとしたら、服を入れてあった体操着袋が無くなっていて、探してみたらトイレにあった。

 一つ一つの悪意にぶつかる度に、僕の心は冷え込んでいった。急激にその対象になってしまって、戸惑いと恐怖とが心の中をグルグル駆け巡っていた。

 今日一日で終わるだろうか?

 したくもないのに恐ろしい想像が次々と浮かんでくる。

 もしも悪意にぶつかる日々が続いてしまったら? 僕はもっと怖いことをされるんじゃないか。体操着袋だけじゃなくて他の物も隠されてしまったら? クラスの子みんなが僕にそういうことをするようになったら?

 悪い想像はどんどん膨らんでいって、下校中の僕の足をすくませる。

 学校、行きたくないな。

 そんな言葉がハッキリと出てきてしまって、咄嗟に『ダメだ!』と思った。

 今までずっと、自分にも隠してきた。できるだけ形にならないように誤魔化してきた。僕はみんなみたいに強くなくて、自分の意見を言えなくて、学級会の時なんかも黙りっぱなしで、たまに先生に当てられた時なんかもまともに喋れなくて、こんな自分に友達なんてできっこないのは、分かってた。分かるしかなかった。

 学校に自分の居場所がない。行きたくない。

 今まで誰にも言わなかったこと。自分にさえ言えなかったこと。でも、そんなことは思っちゃダメなんだ。だって、思ってしまったら、僕は辛くなる。辛くなったら、誰かに言いたくなる。でも言える先なんてないんだから。僕はお母さんに元気でいてほしいから、言っちゃダメだから。

 だから、そんなこと、思っちゃいけない。

 そう思おうとしたのに、僕の後ろでカチャと音がして、悪寒が走る。ランドセルを開けられたのだ。悪戯をしかけた子たちが僕の横を走り去っていく。

 その後ろ姿には悲しいくらい見覚えがあった。背中に何か投げられた時、声を押し殺して笑っていたのも彼だった。

 江藤君は友達と楽しそうに走っている。


 家に帰ると、お母さんからの「おかえりなさい」が無くて、『あぁ、疲れちゃってるんだ』って分かった。手洗いうがいをしてからお母さんの姿を探すと、寝室で横になっていた。僕がドアを開けた音に気付いて慌てて立ち上がろうとしたから、僕も慌てて「寝てて大丈夫だよ」と言った。

「ごめんね」

 上半身を起こしたお母さんが僕にそう言う。震え声で、その瞳を潤ませて。

 僕はお母さんに軽く手を振ってドアを閉める。そして自分の部屋に戻って、昨日みたいにベッドにダイブして、思ってしまった。

 『泣きたいのは僕の方だよ』と。


 今日はしばらく宿題をやる気になれなくて、誕生日プレゼントに買ってもらったゲームをやっていた。魔法のある世界で生活を楽しむゲーム。ここでは僕は人気者で、町の誰もが名前を呼んで、話しかけてくれる。おつかいを頼まれたり、一緒にミニゲームで遊んだり、時には魔物を退治するために共闘したりする。僕にとって理想の世界。友達がいて、魔法が使えて、自由に過ごせる。

 だけど今日は楽しくなかった。本当は何もしたくなかった。ゲームでさえも。でも何もしないでいると、江藤君の押し殺した笑い声が、楽しそうな表情がチラついて、それを思い出したくなくて、ゲームに逃げ込んだ。とにかく時間を潰すためにひたすら魔物を倒していた。

 早くお父さんに帰ってきてほしかったけど、今日もお母さんはあんな様子だし、僕のことは話せないんだろうな、と考えていた。それを思うと胸がザラついて、僕はそれを誤魔化すためにも魔物の討伐に集中した。

 静かな部屋に場違いな「コングラッチュレーション!」という音声とうるさい効果音が響いた。


「菖太、何かあったのか?」

 お父さんが作ってくれたカレーを食べている時、そう言われた。

「……どうして?」

 聞くと、お父さんは僕の目の前にあるカレーの器を指さして言った。

「いつもより食べるスピードがずっと遅い」

 言われて見てみると、確かに僕のお皿にはまだ半分以上カレーが残っていて、隣のお母さんのお皿にはあと一口といったところだった。

 あんなに調子の悪そうだったお母さんより自分の方が食べるのに時間がかかっていることに素直に驚く。

「菖太、大丈夫? 具合が悪いの?」

 お母さんも自分のお皿と僕のお皿を見比べてからそう言った。その顔は僕のことを本気で心配していて、だから僕は言えないな、と思った。

 僕が本当のことを言ったら、きっと『心配』の顔が『悲しみ』に変わってしまう。そうなったら今度はお母さんが元気でいられなくなる。少しでもお母さんの心配事は減らしておくべきだ。

「……大丈夫だよ」

「……大丈夫じゃないだろ」

 お父さんは一呼吸おいてそう言った。言葉を聞いた途端に心がズキッと痛んだ。

「遠慮しないで、なんでも話していいのよ」

 母さんが僕の手を取って言う。その言葉が本心から来ていることくらい僕にも分かった。

 でも、何て言えばいい? 言ったらどうなる?

 学校で嫌がらせを沢山されたんだって言って、そしたらお父さんはどう思う? もし、もしも、お父さんに余計な問題が増えたと思われたらどうしよう。今だって手一杯のはずなのに、僕がここで弱音を吐いたら、お父さんまで落ち込んでしまうかもしれない。

 お父さんとお母さんが僕のせいで悲しんだり落ち込んだりするのは、嫌だ。

「ほんとに、何もないから」

「父さんたちには言えないことなのか?」

 心配そうな声音。口を開きたくなって、でもやっぱり開けられなかった。

 ……父さんたちに、何が言えるだろう。

 僕より落ち込んでしまうお母さんに、そんなお母さんを支えながら家事と仕事を頑張っているお父さんに、何が言えるだろう。

「菖太、悩みがあるならお母さんたちに言ってみて」

「無理だよ」

 口をついて、出てしまった。

 時間が止まったみたいにお母さんとお父さんが固まる。慌てて何か言おうと思ったけど、何も出てこなかった。

 頭が真っ白になって、気が付いたら逃げ出していた。ダイニングを飛び出して自分の部屋へ駆け上がる。追ってきたらどうしよう、と思ったけど、お父さんとお母さんは唖然としたままなのか、あえてなのか、分からないけど追ってこなかった。

 部屋の中、電気もつけずにベッドの中に潜り込む。

 どうしよう、どうしよう、どうしよう。

 謝らないと。あんな顔初めて見た。傷ついたって顔だった。ごめんなさいって言わなきゃ。でも、どうしよう。謝ったらきっと何があったのか聞かれる。答えられない。

 そうだ、明日になったら何か変わってるかもしれない。僕が嫌がらせを受けたのは今日たまたまで、明日になったら──。

 もし、明日になったら何事もなかったみたいに学校に行けたとしても、謝らないといけないよね。

 ベッドの中で小さくなっていた僕は、窓のある方を向いて座って、夜空に向かって願った。

 お母さんとお父さんに謝れますように。謝った後に何も聞かれませんように。もうあんな嫌がらせを受けずに過ごせますように。

 お父さんとお母さんに、迷惑をかけずにいられますように。


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