朝になった。
千歳は早朝に目を覚まして仕事のグループトークに目を通した。
特に異常はなし。
仮想空間のメンテナンスは先日終了し、普通に仕事は再開していた。
食卓で朝ご飯を食べようとする。
食パン1枚にチーズ一切れ、そして少しハイプライスなマルチビタミン剤を一錠。
それで学校に通おうとするとなぜか梓が何か伝えたい様子だった。
梓
「えっと、ちょっと学校行くの待ってくれない?」
千歳
「え、なんで?」
梓
「榛ちゃんの調子が悪そうだから。見に行ってあげて。学校は行かなくていいから」
千歳
「これ、給料発生する?」
梓
「えっと、分からないな」
千歳
「わかったよ、行ってくる」
そういえば、最近榛は仕事中もボーっとしていることが多くなってるし、学校に遅刻することもたびたびある。
確か、クラスに一番乗りしているのは榛だったはずだが、今となっては遅刻の常習犯だ。
何か健康状態がよろしくないのだろうな、とどこかで思っていたが、千歳が施設まで行って様子を見てこいと言われるほど状態がよろしくないのだろうか?
千歳は、クラスメイトは守る方針で動いているので迷わず榛が住んでいる施設に向かった。
受付で榛と同じ仕事をしていることを証明すると、最近の榛の体調はズタボロで施設に帰ってくるたびに声を出して泣いていることや心の病気になりかけていることが証言された。
千歳は、どうしたらいいのか本当にわからなくなった。
が、とりあえず榛の部屋まで行くのだった。
榛が住んでいる施設はシェアハウスのような空間で、空調はしっかりしているし一見快適そうに見えるが、結局のところ食べるものや入浴は自力で行う必要がある。
自分自身の生活を自力で支えられなくなったら、病気になる一方。
そういう場所だった。
千歳は榛の部屋までたどり着いた。
ノックをする。
千歳
「どうも、千歳だよ」
榛
「うん、入っていいよ」
千歳は榛の部屋に入った。
部屋は荒れ放題だった。
榛が好きだった紅茶のティーポットはもう使われておらず床に放置されていた。
そんな中で榛はベッドで寝ていた。
そのくらいしかできないからずっとベッドで寝ているのだろう。
千歳
「どう、眠れてる?」
千歳はそんなことを聞いてみた。
榛
「職員の人にお薬もらってるから眠れてる。でも、朝は起きられないよ」
千歳
「ご飯食べれてる?」
榛
「ヨーグルトなら。たくさん食べられなくなっちゃった」
千歳
「そっか」
いくら学校の勉強ができるからと言って、こういう状況で適切な判断ができるほど千歳は利口ではない。
精神医学という専門的な力が必要になってくる。
犯罪力で解決できる問題ではない。
千歳は自分自身の不甲斐なさを実感するに至った。
が、一番つらいのは榛だろう。
どうして、こんな状態になってしまったのだろう?
千歳
「何か、辛いことがあったの?」
榛
「うん、私ね、できれば人に頼らないで生きていたいの。だけど、勉強もできないし道も覚えられない。仕事もできないし、私ってなにもできない」
千歳
「そうかもしれないね」
榛
「ねえ千歳君、私これからどうしたらいいかな? 頑張ろうとしても朝起きられないし、学校にも遅刻しちゃうし、もうお仕事もあんまりできない。私って生きてる意味あるかな?」
千歳は、榛相手にイライラしたのだった。
それは、罪を犯してまで生きることを選択した千歳からしてみれば、自分の不甲斐なさを理由に生きる意味を問うこと自体が無意味だからだ。
だが、榛を千歳のような犯罪者側に引きずり込むことを良しとするほど千歳は吹っ切れていないし、榛には失うものがたくさんある。
だから榛に犯罪をさせるのはやめて、どうやって榛に元気を取り戻させるかを千歳は考えた。
千歳
「紅茶、飲む?」
榛
「うん」
千歳
「ちょっと待ってて、お湯沸かしてくるから。茶葉、何がいい?」
榛
「アッサム」
千歳
「わかった」
榛
「お砂糖たっぷり、ミルクたっぷりで」
千歳
「わかった」
千歳は片手間に今日の授業は欠席すると連絡を入れたのだった。
当然仕事もお休み。
物部にも今は忙しいから仕事を回さないでくれと連絡を入れた。
千歳はお湯を電子ケトルで沸かして、ティーポットに茶葉を入れて紅茶を作るのだった。
ミルクは、ネットで見たやり方で淹れて、その後は静かな時間が流れた。
学校に行かなければあの邪悪な先生と面を合わせなくて済む。
仕事場に行かなければ面倒な警備をする必要もない。
今は忙しいと言えば物部から犯罪を命じられることはない。
確かに働くことでの賃金は得られないかもしれないが、千歳は榛の面倒を見ている間、少しの心の静けさを感じるのだった。
ミルクティーを榛の部屋まで持って行き、声をかける。
千歳
「どうぞ、ミルクティー」
榛
「ありがとう」
榛はベッドから起き上がり、千歳が淹れた甘いミルクティーを飲むのだった。
榛
「あれ、千歳君の分は?」
千歳
「あ、忘れちゃった」
榛
「ふーん、そういうところあるんだ」
確かに、共同生活用の冷蔵庫には榛の名前が書かれた食材たちがあったが、それを千歳が口にすることは想定していなかった。
榛
「千歳君の分も作ればよかったのに」
千歳
「それは、榛さんが買った食材を自分が食べていいってこと?」
榛
「そうだけど? 千歳君にはお世話になってるし、少しくらい食べても大丈夫だよ」
千歳
「ふーん」
千歳は変なの、と思った。
榛は誰かに感謝することができる人間だし、誰かの役に立ちたいと考えている人間だ。
しかしながら、誰かを自分のために利用するのは抵抗がある。
可能な限り自分の力で暮らしていきたいという。
誰かの役に立ちたいと考えるのに、誰かを利用しようという気はない。
誰かを助けるのは得意だが、誰かに助けてもらうのは苦手。
なんと面倒な人なのだろう。
ほんの少しゆったりとした時間を過ごした後、千歳はこう言う。
千歳
「そろそろ帰ろうかな?」
榛
「ダメ」
千歳
「わがままだね」
榛
「ダメですか?」
千歳
「わかったよ」
千歳はもう少し榛と一緒にいることにした。
理由?
そのほうが榛のためになると思ったからだ。
そういうわけで、千歳は榛と一緒にいることにした。
榛
「私、できれば自分の力で生きていきたいです」
千歳
「そうだね」
榛
「でも、それができないです」
千歳
「そうかもしれないね」
榛
「私ってどうしたらいいんでしょう?」
千歳
「俺に尋ねられてもなあ」
榛
「千歳君にも分らないんですか?」
千歳
「だって、榛さんが決めることだから、それって」
榛
「うーん、決められないです」
千歳
「自分の人生だから、自力で決めないと後々後悔するよ」
榛
「千歳君は後悔してないんですか?」
千歳は一呼吸置いた後。
千歳
「さあ? 俺の人生はこの先ずいぶんと長いからね。どのタイミングで後悔するかは分からない。でも、いずれ後悔する日は来る。だって、人って後悔する生き物じゃないか」
榛
「どうしてですか? 千歳君はすごい人たちの言ってる後悔しない生き方とかしてないんですか?」
千歳
「後悔は絶対するよ。何かを決断すれば、その決断が正しくても間違っていても、どちらでもなくても後悔する。何かを決断するってそういうことだから」
榛
「すみません、よくわからないです」
千歳
「大丈夫、平気だよ」
千歳は優しくそう言った。
榛
「本当に大丈夫なんでしょうか?」
榛の表情は本当に不安そうだった。
本来ならな、病気がある人間だったら他者の理解を促して、どうやって助力を乞うのか考えるのが王道だ。
しかしながら榛はなるべく自力で生きようとしている。
それ自体は素晴らしいことだし、決して否定されるべきことじゃない。
だが、今の榛はすぐにその状態になることはできないだろう。
ただの高校生が収入はあれど一人で生きていくなんて、できるはずがないのだ。
千歳は何も言う事が出来ず、ただ沈黙した。
分からないなら分からないと言えばいいのに、千歳は中途半端に賢いから分からないと言えない。
榛
「あの、千歳君が淹れたミルクティー、おいしかったです」
千歳
「ありがとう」
榛
「でも、私が淹れたミルクティーの方がおいしいです。今度は私が千歳君にミルクティーを淹れてあげたいです」
千歳
「体調の方は平気?」
榛
「悪いので、すぐには出来ないですけど」
千歳
「じゃあ、それまで待ってるから」
榛
「はい」
千歳は榛の部屋でしばらくじっとしていた。
やはり、ゆったりとした時間が流れていくのを感じた。
千歳は朝起きて簡単な朝食を食べて、学校へ行く。
通常の数倍のスピードで勉強をして、家に帰れば仕事をする。
そう考えると、毎日のなんと忙しい事だろう。
今日は榛の面倒を見るという仕事をしているが、千歳は最近では一番のゆったりとした時間を享受することができた。
榛には感謝しかない。
千歳はそのことを榛に感謝したかったが、どう感謝すればいいかわからなかった。
それが榛の求めている感謝なのか、千歳が受け取りたい慈悲なのか、果たしてこれが最適解なのか?
千歳はそれを気にして榛に感謝の言葉を口にすることができなかった。
ミルクティーを淹れたことで二人の間の溝は埋まるかと思ったが、まだ時間はかかるようだ。
榛
「えっと、学校と仕事はどうしようかな?」
千歳
「できれば通った方がいいけど、今は体調を治すのが先じゃない?」
榛
「そうだよね、でも、学校に通わないと勉強できないし、仕事もできない」
千歳
「慌てなくてもいいじゃないか」
榛
「そうかもね」
榛は視線を背けていた。
きっと、千歳に合わせて嘘を言ったのだろう。
榛はもっと活躍したい、もっと頭がよくなりたい、もっと頑張りたいと本心では思っている。
が、どうしてもできない。
さっきから同じことを繰り返しているが、実際榛の頭の中はこんな感じだ。
同じことをずっとぐるぐると考えている。
快刀乱麻に解決する方法はなく、現状が変わらない限り榛は同じことを考え続ける。
困難さの泥沼にはまってしまったのだ。
千歳はただぼんやりと冷静にしていられるが、榛はまとまらない思考をどうにかして保つので精いっぱいで、時間だけが過ぎていった。
そういえば、榛って笑わないな、と千歳は思った。
千歳も笑わない人間なので人のことは言えないが、榛はいつにも増して笑っていない。
仕事中は多少の笑みを浮かべることはあるが、いつにも増しいて笑顔が減っている。
なんだろうな、榛が精神的に参っている様子がここではっきりと見えてきたのだ。
だから、榛にはゆったりしてもらう必要があるのだろう。
『ゆったり』
千歳の苦手な言葉だ。
しばらくして榛はこんなことを話し出した。
榛
「うちのクラスって、みんないろいろできますよね」
千歳
「そうだね」
榛
「みんな素敵で輝いてる。千歳君もそう。でも私って何もない」
そういう榛の表情は本当に影が落ちている。
榛
「私は、何もできない自分を認めて、黙って生きていくしかないのかな?」
千歳
「そうかも、しれないね」
榛
「私って、どうしたらいいかな?」
千歳
「それは自分で決めないと。自分の人生なんだから」
榛
「そっか。そうだよね」
そう言って榛はまた沈黙した。
沈黙している榛の表情はやはり影が落ちていた。
榛の内面をうかがい知ることはできないが、人間は悲しむとこんな表情をするのだな、と千歳は学習した。
本当なら涙を流すのかもしれないが、榛はもう泣くこともできないのだろう。
千歳
「そろそろお昼だけど、何か食べる?」
榛
「冷蔵庫の中身って、他に何があった?」
千歳
「牛乳と茶葉しかなかった」
榛
「じゃあ、食べなくてもいいや」
千歳
「ダメ、ちゃんと食べて。俺がおごるから」
榛
「ありがとうございます」
なんだか、榛は一人で生きていきたいと言ったくせに、千歳の援助は軽々しく受けるのだな。
ある意味、千歳には心を開き切っているのだろう。
だから、こうして千歳と一緒にいることはできるが、この姿をほかのクラスメイトに見せられるかと言えば、違うだろう。
気が付いたら窓から夕陽が差し込む時間になっていた。
千歳
「ごめん、もう帰らないと」
榛
「うん」
千歳
「それじゃあ、また明日も来るから」
榛
「うん」
そう言って千歳は榛の部屋の扉に手をかけて外に出た。
去り際、肩越しに榛を一瞥したが、とてもさみしそうな顔をしていた。
扉を閉めて榛に独り言を聞かれないくらいの距離まで歩みを進めると、千歳は独り言を言った。
千歳
「どうしてそんな顔をするのかな」
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