見出し画像

32

 次の日のことだった。

 千歳は数学の内容を榛に教えていた。

 千歳は四則演算の力は全く問題ないので、それから勉強以外にやることは大してないため数学はそれなりに得意だった。

 まあ、四季には劣るのだが。

 が、故に榛に数学を教えるのは千歳の役目になっていた。

 これも特別支援学校ならではの光景なのだろうな。

 千歳
「1/2と2/3を足し算するにはどうしたらいいかわかる?」

 
「上の1と2を足して3、下の2と3を足して3/5かな?」

 千歳
「まあ、そういう考え方もあるね」

 
「答えは合ってますか?」

 千歳
「実は違うんだ。分数と言うのは意地悪で、分母を同じにしてあげないと足し算することができないんだ」

 
「つまりどういうことです?」

 千歳
「今のままだと足し算ができないんだ」

 
「へー」

 千歳
「だから、それぞれの分数を分母が同じになるように掛け算をする。2と3を同じ数字にできて、なおかつ一番小さい数を探していく必要がある」

 
「掛け算を使えばいいのかな?」

 千歳
「その通り。2の掛け算と3の掛け算で、同じ数字になって一番小さい数を探せばいい」

 榛はしばらく黙り込んで、2の掛け算の表と3の掛け算の表をノートの隅に書き込むのだった。

 そこで出てきた数字は6。

 
「6だね」

 千歳
「そう、だからそれぞれの分数の分母が6になればようやく足し算ができる、のだけれど、1/2は3倍、2/3は2倍にした。だから分子もそれぞれ3倍2倍にしないといけない」

 
「えっと、3/6+4/6になるのかな?」

 千歳
「大丈夫、合ってる」

 
「答えって、7/6かな?」

 千歳
「そうだね、それであってる」

 
「ねえ、7/6ってなに? りんごがいくつあるの?」

 千歳
「うーん、数字と言うのは概念みたいなもので、実のところ7/6個のりんごなんてこの世界に存在しないんだ」

 
「存在しないものがこの計算の答えなの?」

 千歳
「どうなんだろう」

 そんな時四季がこっちを向いて言うのだった。

 四季
「数学は極めれば極めるほど魔法と大差ないよ。この世界に7/6個のりんごなんてない」

 千歳
「そうらしいよ」

 
「うーん、わからない」 

 千歳
「そっか。わからないことをわからないと言えるのは凄いことだよ」

 
「そんなに凄いことなんですか?」

 千歳
「よくわからないけど、そうらしい」

 なるほどな、千歳はよくわからないことを自ら説明したのか。

 自らの無知を自覚しているあたり、榛のほうが利口だな。

 千歳はソクラテスが提唱するところの無知の知を言おうとしたが、結局榛にどう説明したらいいのかわからなくて詰んだ。

 榛の知性を相手に千歳はどう立ち回ったらいいのか、打開策がまるで持てない。

 分数の足し算は教えることができたが、多分明日には忘れているだろう。

 
「こんな変な足し算が役に立つのかな?」

 千歳
「分からないなあ。少なくとも俺は整数の世界で生きてるからなあ」

 そりゃそうだ。

 金がいくらあるのか、分数で表現した日には大変なことになる。

 そんなことより千歳はもっと別のところで知恵を働かせるべきだろう。

 
「美味しい紅茶の入れ方だったらすぐに覚えられるのに」

 千歳
「それはどうしてかな」

 
「だって、美味しい紅茶が飲めるもの」

 千歳
「それは大切なことだね。算数ができることと同じくらい」

 
「それって、多分ですけどバカにしてますよね?」

 千歳はここで言葉に詰まった。

 なるほどなあ、榛はそういうところには勘が行くようになっているのか。

 千歳はわかりやすくかみ砕いて榛の凄さを説明しようとしたが、確かにな、見上げればもっとすごい人は世の中にいくらでもいるわけで。

 榛は本気で自分のことを評価してほしいと言っているのだ。

 だが、千歳からしてみれば美味しい紅茶と言うのは喉から手が出るほど必要なものであり、千歳は嘘をついていない。

 しかしながら、それを伝えたところで榛は納得しないだろう。

 榛は千歳の顔をよく見ており、少しでも表情から何かを察しようとしているが、千歳は榛の顔を見ていない。

 少しして千歳は榛の顔を見てみたが、そこには複雑そうな表情の榛の顔があった。

 そこには能力への嫉妬、自分自身の至らなさ、そう言ったものが凝縮されていた。

 千歳はすぐに目を背けた。

 が、榛の表情は焼き付いて離れなかった。

 
「ごめんなさい」

 千歳
「いいや、別に」

 最後は榛がどちらかと言えば悪意寄りの感情を千歳に向けていたと悟り、榛は引き下がった。

 千歳
「いや、本当に美味しい紅茶を淹れられるのは素敵なことだと思うよ」

 
「本当にそう思ってる?」

 千歳
「すまない、美味しい紅茶なんて人生で一度も飲んだことがないんだ。それこそ、毎日冷たいお弁当とまずいご飯ばかりで、この世界に美味しい料理があるなんてことすら知らない身だね」

 
「じゃあ、その点では私が千歳君より上なんだね?」

 千歳
「もちろん」

 最近は梓が千歳の家に転がり込んできたが、梓は梓で大して料理をしないという特性付きだったので泥沼であることはこの辺で開示しておくとして、千歳が美味しい料理を食べることができれば、千歳の幸福度は上昇する。

 犯罪者だろうが聖なる人だろうが生物である以上はお腹がすくわけで。

 どこぞの聖人は40日の断食に耐え、その後空腹を覚えている。

 千歳は断食なんてしたことがないので、少々の飢えで倒れるだろう。

 きっと千歳が城だとしたら、食料を分断して、そこへ榛を向かわせれば、無血開城も容易。

 やっぱり千歳は穴だらけの完璧だったな。


 そうして午前の授業が終わった。

 千歳は相変わらず職員室に呼び出された。

 先生
「やあ」

 千歳
「てめーの面は見飽きてるんだよ。早く要件を言えよ」

 先生
「おやおや、常に仮面をかぶっている相手に面を見飽きるなど、おやおや」

 千歳
「最近の不良の真似ですが、迫力はありましたか?」

 千歳は何がしたいのだろう?

 そういえば謎の組織所属なのは篝の件で露呈したからな。

 少々きつい言葉を使っても先生は問題ないだろう。

 先生
「おやおや、先生が子供の頃は親ガチャ外れとかよく言ったものですが。さらにその前の子供はうっせえくそばばあとよく言ったものです」

 千歳
「自分に親はいません」

 先生
「では、さっそく親になってもらいましょうか」

 千歳
「えーっと、それはどういう意味でしょうか?」

 先生
「梓さんと百々さんは現在同居中で、千歳君が篝さんの護衛をしている環境下でも問題なく生活できた、ということは千歳君はもっと自由に動き回ってくれていいと会社の偉い人から言われましてね。まあ、これも雇い主の意向です」

 千歳
「今度はどんな我儘に付き合わされるのでしょうね?」

 先生
「千歳君に一つ聞きたいのですが、妹さんの職業をご存知ですか?」

 千歳
「いいえ、わかりません。本人があまり話したがらないので。自分も仕事のことはあまり話しません。で、その話がどう関係するのでしょう?」

 先生
「即座に関係することはありませんよ。ただ、そのことを聞いておけば後々先生が有利になることはありますね。ただでさえ千歳君は裏社会との繋がりがあるんじゃないかと言われているほどですから。念には念を入れるのが先生のやり方です」

 千歳
「りんごはりんごでも、別々のりんごだからですか?」

 先生
「そうですね、それもそうですが、千歳君は先生と言う身分の人間が家庭環境を尋ねるのがそんなに変だと感じますか?」

 なるほどな、先生はシンプルに千歳の出生や普段の生活を気にかけているのだろう。

 だがな、千歳とは違う意味で変な人間だ。

 そういう意味で特別支援学校の先生は務まるかもしれないが、千歳相手に通用するかどうかは未知数だ。

 探り探り千歳と話し合いをしているのだろう。

 千歳
「ふーん、確かに、本来なら保護者を通じて話をするべき内容ですが、自分には保護者がいませんからね。やりにくいでしょう」

 先生
「そうそう。学校教育と家庭教育の両方が成り立って本来なら子供が育つのですがね、千歳君の場合は学校教育しかありませんから」

 千歳
「自分の家庭環境には問題があると言いたいのですか?」

 先生
「大問題です。親なしの子供なんてこの世界に存在してはいけません」

 千歳
「まあ、言いたいことはわかります。それで、自分にどうしろと?」

 先生
「やれやれ、他愛のない雑談程度なのに。随分真面目に話をしますね」

 千歳
「雑談でしたら、アポを取ってください」

 先生
「これだよ、近頃の若いやつらときたら」

 千歳
「話は終わりですか?」

 先生
「おけーおけー、先生もいけ好かない人間のつもりはありますが、千歳君ほどではないとわかりました。今後も定期的に話しましょう。お互いのために」

 千歳
「それは助かります。当然、お話しできない部分はありますので、その時は沈黙します」

 先生
「物部さんとはどんな関係ですか?」

 千歳
「物部さんは自分の親のような相手です。いつかは自分も貧しくて困っている人に救いの手を差し伸べるのではないかと思っています」

 先生の表情はわからないが、そんなことを話してもいいのか、と思ってしまえるほど千歳は流暢だった。

 まあ、一番効果がなさそうな質問だったからな。


 などなど、千歳は内心うんざりする雑談を先生とした後、帰宅するために荷物をまとめるのだった。

 すると、榛が話しかけてきた。

 
「今日は暑いですか? 寒いですか?」

 千歳
「今日は、天気が少し悪いね。曇ってる。でもまだ夏の気配が残ってるから一雨来るかな?」

 
「雲ってると雨が降るんですか?」

 千歳
「確率的には雨が降るかもしれないね。あっ、えーっと、確率って意味わかる?」

 
「雨が降るかどうかわからないと言うことでしょうか?」

 千歳
「そう、素晴らしいじゃないか。よくわかったね」

 
「ば、バカにしないでください」

 またこのやり取りか。

 
「え、えっと、今日はこれから近所のスーパーに寄って帰ろうと思っているんですが、千歳君もどうですか?」

 千歳
「そうだね、ご一緒させてもらおうかな」

 どうせ家に帰ってもやることはないし、と付け加えようとしてやめたのは内緒だ。

 そうして、榛に案内されて千歳は近所のスーパーに寄ろうとするのだった。

 が、どうしてか、いつまでたっても榛はスーパーにたどり着かない。

 
「ごめんなさい、道に迷いました」

 千歳
「そっか」

 方向音痴というやつか。

 榛は千歳に頼らないでスーパーにたどり着きたいようだが。

 だが、頼らなければたどり着けないだろう。

 
「この近くのスーパーの場所は、千歳君分かりますか?」

 千歳
「わかるよ」

 
「そっか、やっぱり頭いいね」

 千歳
「ありがとう」

 
「道、案内してくれないかな?」

 千歳
「いいよ、ついてきて」

 千歳は榛に代わってスーパーまでの道を案内し始めた。

 千歳は学校周辺の地理を完璧に把握しているし、自分が住んでいる街に何があって何がないか全て知っている、が榛はそうではない。

 榛は後ろを3歩くらい遅れてついてくる。

 千歳に表情はうかがい知れないが、きっと千歳の頭の良さに嫉妬しているのだろうな、と考えてしまう。

 振り返って榛の顔色をうかがいたいが、それもできない。

 なんだろうなあ、女の子だったら王子様に道案内をされて喜ぶのかもしれないが、すべての女の子がそうであるとは限らない。

 榛は自立心を持った知的障碍者というわけで、その気持ちは大切にしてあげたいものだ。

 が、大切にしたところで榛がやっていけるかというとそういうわけではなく、千歳はこういう時にどうしたらいいのか本当にわからなかった。

 榛の気持ちを大切にするべきなのか、それとも榛の能力を考えて本人が判断することをなるべく避けるのか、本当に難しい問題だ。

 結局スーパーにたどり着くまで榛は無言だった。

 千歳
「なんだか、気まずくないかい?」

 
「はい、気まずいです」

 榛は明らかに不機嫌だった。

 普段のおどおどした態度とは裏腹に、千歳相手には心を開けているのか、不機嫌さやその他の感情も千歳相手には遠慮なく見せるようになっているのだ。

 千歳としてはお互いの距離が近づいたかな、と思ったが、距離が近づけば、榛が抱えている悩みを千歳はもっと知ることになるだろう。

 そんな中で、千歳は、榛の悩みをもっと軽いものにできないだろうかと必死になって考えていた。

 榛の保護者でもないのに。

 そんなわけで、千歳は自分自身の身内同然のように榛の悩みに付き合うことにしたのだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?