長編小説『エンドウォーカー・ワン』第8話
ノーストリア軍によるイルデ市侵攻から一か月後。
市民たちはかなり生活を制限されていたが、ネットワーク通信は限定的なものの解放されている。
サウストリア政府は大規模な奪還作戦を計画しながら人道回廊の再設置を求めるが北はこれを拒否。
市街戦に発展するのではないかという緊張感で街の空気は張り詰めていた。
「おじさん、いつもの!」
生気のなかった頃のベルハルトは何処へやら。
一回り存在感の大きくなった少年のはつらつとした有様に顔馴染みの男性店主も「ベルもすっかり元通りだな。ほら、持ってけ」とカウンターの奥に用意していた焦げ茶色の紙袋を寄越した。
「ありがとう。また」
戦時下に負けない満面の笑みを浮かべた少年に手を振り、にこやかに送り出す男性。
表通りに戻り、街並みに合わせて敷き詰められた茶色の速乾性アスファルトの上を駆ける。
履き慣れたスニーカーは彼の足回りを確りと支え、白のウインドブレーカーは痩躯を突き刺さるような寒風から守っている。
朝方未明から降り始めた雨は昼過ぎには止み、名残惜しそうに電線から時折雫を垂らしていた。
ベルハルトはまだ温かい包みを小脇に抱えて短く息を吐き出しながら街を行く。
買い物が決して急ぐものではないのは重々承知しているが、はやる気持ちが彼を急き立てていた。
――いよいよ決行は明日。
そう思う彼の心は不思議と緊張感で弾んでいる。
どこかこの非日常に恋焦がれ、楽しんでいたのだろうか。
今のベルハルトにとって身近にあるはずの戦争はどこか遠く、自らに降りかかるものだとは思いもしなかった。
少年の浅い人生経験からくる全能感、脅威に対してあまりにも無知で幼くあまりにも愚かだった。
戦火の中で未だに戦っているという父親の背中に追いつきたいという思いもある。
しかし、傍らにはイリアや街の人々が佇んでいた。
これからのことを考えると、ベルハルトの胸は針でチクリと何度も刺されるような思いで心苦しい。
――お前は居なくならないよな。
あの日結んだ不確かな約束が手の盃から零れ落ちた。
それら一滴一滴が煌めいていて、自分の中から大切なものが抜けていく。
――その時は迎えに行ってやるよ。
その約束だけは何が何でも忘れずに。
大切に、たいせつに心の奥底で温めておく。
彼はそうすることで背筋へ這い上がる罪悪感から自身を守れるような気がしていた。
「はあ、はぁ、はぁっ」
ベルハルトは様々な感情を胸の内に秘めて道を急いだ。
喪失感のみに包まれて俯いていた以前とは違う、少しだけ先を向いた解放への歩み。
彼が両親のことを忘れるなど到底できないだろう。
だが、生きていくには他の存在意義が必要だったのだ。
打ち込むことができる他の何か、自分というものを確立させるための他者の存在。
意味を見出せない学校での勉学や、父親であるリカルドから受ける訓練では得られない新鮮な感覚に包まれ風を切って行く。
しかし現実はベルハルトを無慈悲に突き放す。
曲がり角に差し掛かろうとした次の瞬間。叫び声が聞こえ、彼は足を止める。
「やめろぉ、俺達は何もしてねぇ!」
普段は物静かなはずの顔見知りの青年が情けない声を上げていた。
彼らは漆黒色の軍服に身を包んだノーストリア兵たちによって拘束され、深緑色に塗りたくられたトラックに次々と押し込まれていた。
大人たちは激しく抵抗したのだろうか。頭から流血している者も中には居る。
もし叫びを耳にしてなければ不用心な少年はその姿を晒し、兵士たちに詰問されたことだろう。
「ほらっ、呆けてないでさっさと乗れ! この反逆者どもめ!」
ノーストリア兵が大人たちを足蹴にする。
「大変だ……」
血の気の引く思いだったベルハルトは物音を立てないように後退り、街を再び駆けた。
彼とてこの数か月の間現状に甘んじていた訳ではない。
反勢力に協力して、ノーストリアの検問所やパトロールの順路、兵士たちの詰所や兵器の保管場所の情報などを各支部に伝達し、来るべき日に備えていた。
だが、どこで居場所が漏れたというのだろうか。
行く先、行く先で検挙されていく仲間たち。
彼の心象に浮かぶ暗雲が現実まで侵食してきたのだろうか、晴天の空に厚い雲が立ち込めた。
「おい、そこのお前。さっきから何をしている」
紙袋片手に街を行き来していたベルハルトはノーストリア兵に咎められ、表情を強張らせて硬直してしまった。
普段なら笑って誤魔化すところなのだが、内から溢れ出した不安感が思考を鈍らせていた。
「あっ……」
半日常と化していたノーストリアの兵士たちから底知れぬ恐怖を感じる。
それは赤――自分以外の人間が鮮血を流しているのを目の当たりにし、夢の世界から引き落とされたからだろうか。
焦燥感だけがチリチリとベルハルトの脳を焼いていく。
「黙ってないで何か言わんか。何をしている?」
兵士は子ども相手に大人気なかったか、と少しだけ物言いを柔らかくして口角を上げた。
その心遣いもか細い少年の目には脅威としかとられず、肉食獣の眼差しを受けて脱兎の如く身を翻して駆ける。
「あっ、おい!」
「放っておけよ。レジスタンスは一掃されたそうだし、あんなガキ一人逃がしたところで何の害にもならねえって」
ベルハルトは背中にその言葉を受けながら我武者羅に走った。
自分の情けない姿を誰にも見られないように顔を下げて、ただ走った。
――どう足掻いても、俺は英雄なんかにはなれない。
誰も守れない。
誰かの存在理由になんてなれない。
何者でもない自分は何かになれることなく、老いて朽ちていくのだろう。
少年の自虐的な思考は滴となり、痕を幼顔に幾重にも刻み込んでいくのだった。
執筆・投稿 雨月サト
©DIGITAL butter/EUREKA project
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