見出し画像

31

 9月になった。

 特別支援クラスは変わらず普段通りで、夏休みの終わりを全身に感じるが、残暑は変わらず猛烈でエアコンは低電力モードで稼働していた。

 特に最近はハイスペックの機材による授業も多いためか、熱暴走で機材が壊れると授業データが崩壊すると先生は言っており、これが最先端なんだなー、と千歳は思っていたり思っていなかったり。

 それから今日は千歳たちが警備する仮想現実がメンテナンス日らしいので、警備担当のクラスメイト一同は久しぶりの自由な放課後を得ることができた。

 まあ、お金があれば夏休みにセルフ修学旅行さえもできてしまう自由度を考えれば、放課後4時間がフリーになったところで大した影響はない。

 少し静かな映画でも見に行こうかな、くらいの気分だったりする。

 
「あの」

 帰る支度をしていた千歳に榛が話しかけてくる。

 千歳
「どうしたんだい?」

 千歳は相変わらずの優しい声で応答する。

 
「えっと、今は暑いですか、寒いですか?」

 千歳
「そこまででもないかな?」

 
「えーっと、よくわからないです」

 千歳はいったい何を混乱させたのかよくわからなかったが、榛は混乱している様子だった。

 たとえば、そうだな、この世界を有能な人間と無能な人間で分類して半分に切ると、千歳は有能側、榛は無能側だろう。

 だからこういう時の対応というのは千歳の専門外だ。

 やはり穴だらけの完璧だな、千歳という生き物は。

 榛がいったい何を考えているのか千歳には理解できない。

 当然、榛は千歳が何を考えているか理解できない。

 千歳は比較的強者だが、弱者に寄り添えるかというと、怪しいところがある。

 
「今日はいい天気ですね」

 千歳
「そうだね」

 
「え、えーっと」

 千歳
「どうしたんだい?」

 
「な、何でもないです」

 榛はまた教室の外へ出てしまった。

 ああいう謎の動きが榛は多い。

 いったい何がいけなかったのだろう、と千歳は考えた。

 榛は知能指数が低いと先生に言われていたが、知能指数の低い人間が何を考えているのか、千歳にはいまいち理解できない。

 しばらくして榛は再び千歳の前に戻ってきたのだった。

 
「えっと、いいお天気ですね」

 千歳
「そうだね」

 
「どうやったら千歳君みたいに賢くなれるのでしょうか?」

 これを聞かれて千歳は答えたくないと考えた。

 千歳の高度な知能と勘は間違いなく犯罪によって磨かれたものだ。

 だから、千歳の賢さを榛に分け与えれば榛は犯罪者になってしまう。

 千歳
「秘密さ。毎日それなりに勉強して、それなりに頭を使っていればなるようになるよ」

 
「私、仕事を始めてお金をもらえるようになったけど、ATMをどうやって使うのかわからない」

 千歳
「初給料の時は銀行員さんに手帳を見せて手伝ってもらってたね」

 
「でも、何でも一人でできるようになりたいな。千歳君みたいに」

 なんでも、か。

 千歳は榛からしてみたら雲の上の存在に見えるのかもな。

 そういう千歳に尻込みせず正面から話をするあたり肝は据わっているようだが、それが鈍感からくる無知なのは内緒だ。

 普通、千歳のような人間を相手にしたら、仲良くなるにはどうしたらいいのか悩んで最後には逃げてしまうのが定番だ。

 が、幸か不幸かクラスメイトは6名。

 千歳以外に男子生徒はいない。

 となれば、千歳に教えを乞う以外の選択はない。


 だからその日の放課後は、榛と一緒に銀行に来た。

 どうやら、先月の給料をまだおろしていないらしい。

 
「銀行、すいてますね」

 千歳
「給料日だったらもう少し混んでるよ。みんなお金が大好きだからね」

 
「どうしてお金が好きなんですか?」

 千歳
「誰かを自由に操ったり、カフェの店員さんに美味しいカフェラテを頼んだりできるからさ」

 
「カフェラテなんて自分で作ればいいじゃないですか」

 千歳
「そっかー、俺にはとてもできないけどな。まあ、喫茶店のカフェラテを飲もうと思ったらそれなりに技術は必要かな?」

 
「よくわからないです」

 千歳
「ちょっと難しかったかな?」

 
「そう、よくわからない。千歳君の言うこと」

 実のところ、榛は自力でカフェラテを淹れることができる。

 だから喫茶店の店員にカフェラテを注文する必要がない程度のことを言っただけなのだが、千歳に伝える語彙力を持たなかった。

 日本語の食い違いが起きてしまっているが、榛は自然に話したつもりだった。

 そうか、榛は自力でカフェラテを淹れることができるのか。

 今まで水道水を飲んで渇きを潤していた千歳が、女子力で榛を上回る日は永遠に来ないだろう。

 千歳
「まあいいや、ATM操作してみて」

 
「はい」

 榛はATMを操作した。

 が、暗証番号を思い出せない。

 いけないと思い、カードを一度ATMから引き抜いて、裏に書いてある暗証番号をチェックするのだった。

 なんと言うことだろう、犯罪者がこれを見たら一発で暗証番号を理解して榛の口座から全額を引き抜いていくことだろう。

 なお犯罪者は榛の一番近くに存在している。

 が、榛の口座は狙わないだろうな。

 たかだか25万円程度のお金のために法的リスクは負わない。

 千歳が詐欺師の道を究めれば億を動かすことも簡単な話であり、プロが榛を狙わないのは推測可能だ。

 が、初歩的な防犯を怠る相手を見過ごすほど千歳もやわではない。

 千歳
「ねえ、これ、危ないんじゃない?」

 
「でも、他の方法で覚えておけない」

 千歳
「メモは? スマホでいいから」

 
「メモできない」

 千歳
「紙のメモは?」

 
「すぐなくしちゃう」

 千歳は榛の代わりにATMを操作して、口座から現金を引き出すのだった。

 千歳
「クレジットカード作っておけば? ATMに来なくても現金使えるし」

 
「それはダメだって施設の職員さんが」

 そもそも論だが算数ができない人間にとってお金と言う存在は味方と言うより敵寄りだ。

 千歳はその日一日にいくら使ったのかすべて把握しているが、榛にそれを要求するのは難しいだろう。

 できたとしても、いろいろなものを犠牲にしないと成立しない。

 だから、こうして現金にして手元にいくらあるのかいつでも確認可能な状態にしておかないといけないのだ。

 きっと榛の自宅には陶器のポットがあって、その中にお金を入れているのだろう。

 カフェラテを淹れることが可能なら、さぞお洒落なポッドにお金を入れているのだろうな。

 まあまあ、キャッシュレス決済が叫ばれて何十年もたっているが、数字の使えない人間は太古の時代から存在する。

 数字というやつは使いこなせる人間にとっては手足と見間違うほどだが、使えない人間にとってはただの地雷なのだ。

 そして、目の前にATMを使えない女の子が一人。

 千歳は守るべきものが増えたかな、と感じた。

 ところで、千歳が物部の紹介で闇金で借金を負った榛を追い詰める日は永遠に来ないだろう。

 返済される見込みのないお金を貸すのは愚策中の愚策であり、債務者を追い詰める暴力団というのは漫画の世界にしか存在しない。

 
「えーっと、必要なお金は、給料で出てる25万円全部ですね」

 千歳
「貯金とかしないの? まあ、若いうちからしてもあんまり意味ないかもしれないけど」

 
「はい、お金は職員の人にあずかってもらいます。私、すぐ衝動買いとかしちゃうので。でも、少しずつ自分でお金の管理もできるようになりたいです」

 千歳
「そっか、頑張ってるね」

 と、ここで千歳は時刻を確認した。

 銀行の受付時間がとっくに過ぎている。

 でもATMは稼働し続けているので問題ないが、榛は普段どうやってお金をおろしているのだろうか?

 まあ、それは以前尋ねた通り銀行の人にやってもらうそうだが、今日はATMになった。

 榛は少しずつだけど成長しているんだな、と千歳は思った。

 
「あの、早く銀行出ませんか? もう閉まっちゃうみたいなので」

 千歳
「別にATMはしばらくいても平気だよ」

 
「でも、迷惑になりませんか?」

 千歳
「どうだろう、多少たむろする分には問題ないと思うけど」

 
「いいえ、やっぱり迷惑です。早く出ましょう。千歳君には付き合ってくれたお礼に美味しい飲み物をおごってあげます」

 どうやら、借りは作らないようにしたらしい。

 千歳が付き合った分のお礼をきっちり返す。

 榛はそういう思考回路になっていた。

 だから千歳は榛と一緒に近所の喫茶店に入るのだった。

 飲み物を注文して席に座ると、榛はこんなことを言い始めた。

 
「私、誰かの力を借りないと生きていけない。でも、これからは千歳君みたいに自分で何でもできる人になりたいです」

 千歳
「一人で何でも、か」

 そういえば榛はさっきも一人でできるようになりたいと言っていた。

 まあ、千歳は生まれつき親がいないから全部自分でやらなくてはいけなくなっただけの人間だが、何故だろうな、榛は千歳に対していろいろなものを憧れているようだ。

 千歳
「じゃあ、一つ一つ自力でできるようになっていこうか。手伝うよ」

 
「やった、じゃなくて、ありがとうございます。これからもよろしくね」

 千歳
「こちらこそ」

 ところで、榛が注文した飲み物は甘いココアの上にたっぷりのクリームとチョコレートが乗った凄まじいほど甘い飲み物であり、千歳はそれに吐き気を覚えた。

 生理的嫌悪と言うやつか。

 千歳はストレートの紅茶を飲んでいたが、女の子はああいう飲み物が好きなのだよ。

 そういうのに対して嫌悪感を覚えてしまうあたり、やはり千歳は穴だらけの完璧だな。

 こういう人間を目指しても仕方がないと思うのだが、榛の目には千歳が素敵な人間に見えて仕方がないのだ。

 だから、千歳はしばらく自分自身があこがれの対象になることを榛の成長のためになると、このままにしておくことにした。

 
「どうすれば千歳君みたいに賢くなれるでしょうか?」

 千歳
「本を読むこと。それから内容を4000文字くらいで要約してみるか、4000文字で反論する文を書く。そうすると本の内容が頭の中に入ってくる」

 
「すごい、丁寧に本を読んでいるんだね」

 千歳
「暇だからね」

 これは嘘。

 千歳の客には教養豊かな人物はいくらでもいるわけで、そういう人たちの話についていくために強制的に本を読まされているだけだ。

 とはいえ、興味のないものに千歳がのめり込むはずもなく、千歳は意欲的に知識の収集に努めるのだった。

 
「千歳君のおすすめの本ってありますか?」

 千歳
「そうだなー、やっぱり最初は童話がいい。童話と聞くとバカにされていると言われるかもしれないけど、本を読むうえで大切なことは文字になれておくことだから。いろいろな表現を見ておく必要がある。それから」

 
「それから?」

 千歳
「童話には感動が詰まってる」

 やれやれ、そんなことを言う千歳は感動とやらのために映画を見たりテレビを見たりするのだろうか?

 否、千歳はそういうもののために何かを見たりすることはなく、ひたすら実用書を読み漁り、知識を蓄える人間だ。

 実に、つまらなさそうな人間だよなあ。

 
「感動ですか」 

 千歳
「そう、感動が人の人格を作っていると誰かが言っていたな。榛さんは感動はする?」

 
「うーん、しない。推しが配信で喋ってるのをずっと聞いてたり、そのほうが楽しい」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?