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 次の日、午前10時、千歳は時間ぴったりに榛の部屋のドアをノックした。

 そうすると、ピンク色のかわいらしいお洋服に身を包んだ榛が出てきたのだった。

 姿かたちからしてみて、どうやら、デートのつもりらしい。

 千歳はそんなつもりはないのだが、榛にとって今日は特別な一日のようだ。

 そんな姿を見ても千歳は動じず紳士の振る舞いを崩さなかった。

 
「おはようございます千歳君。今日は素敵な一日にしましょうね」

 千歳
「そうだね。ああ、それから、服、とっても似合ってる」

 榛は顔を赤らめて、

 
「あ、ありがとうございます」

 榛は恥じらいながら部屋から出ると、千歳に行き先を伝えて、道案内をしてもらうのだった。

 千歳は目的地に着くまでに必要な電車の経路と道順を把握すると、榛を案内した。

 あえて最短ルートではなく、少し時間を多めに見積もり、いいや、だいぶ時間を多めに見積もり、榛を水族館に案内した。

 途中、寄り道をたくさんした。

 施設に生えていたススキを眺めて一息、道を歩いていた猫を見て一息。

 そうしているうちに水族館にたどり着いた時、時刻は正午を回っていた。

 だから千歳はお昼ご飯にしようと提案して、二人は水族館の中にあったレストランに入ったのだった。

 
「ごめんね、私のゆったりペースに付き合ってもらって」

 千歳
「大丈夫、そんなに急いでも休日の時間を楽しめないからね」

 
「うん、そうだよね」

 榛は楽しそうにメニューを見て何を食べようか迷うのだった。

 選んでいる時間が一番楽しい。

 誰かがそう言っていたことを千歳は思い出した。

 榛は、まさに今そんな感じなのだろう。

 そうして、榛の前には甘いパフェがたくさん並び始めた。

 お昼ご飯だからご飯を食べるという発想はないらしい。

 最後に、ココアの上に生クリームが乗ったドリンクが運ばれてくると、榛はようやく食べ始めるのだった。

 その姿を見ていて、千歳は微笑ましいな、と感じる反面、随分と豪勢だなあ、とあきれる部分もあり、微妙な気持ちだった。

 が、表情には出さない。

 榛が最初の一口を食べて、おいしいおいしいと言っているのを視界の外に追いやって、千歳は貧相なたらこスパゲッティを食べるのだった。

 千歳
「おいしそうだね」

 
「はい。千歳君も食べますか?」

 千歳
「いいの?」

 
「はい、一口くらいだったら平気です」

 千歳は榛のカップに乗っている生クリームを一口食べるのだった。

 意外にも甘さ控えめで大人の味だった。

 これなら糖分過多で頭痛を引き起こしたりはしないだろう。

 最近の甘味は意外にも甘さ控えめなのか、と千歳は新しい発見をした。

 逆だな。

 千歳はお菓子なんてほとんど食べないから、そして食べるとしたら子供が食べる甘み成分たっぷりの駄菓子しか味わったことがないのだ。

 ジャンキーなお菓子と実の女性に必要とされているスイーツ、格上なのはどちらだろうね?

 新しい発見をしたな、千歳。

 
「私、これからは千歳君みたいな人を探して、優しくしてもらいたいと思います」

 何故かそんなことを話し始める。

 
「私、子供の時は自分の力だけで生きていこうって思っていました。だけど、現実の私は一人じゃ生きていくことすらもできない。だから、これからは千歳君みたいな優しい人を見つけて助けてもらいながら暮らしていこうと思います」

 どういう心境の変化があったかは分からないが、榛はそんなことを言った。

 そうだな、子供の特権というのは、幼稚な万能感であったりする。

 そこからお気に入りのおもちゃが値上がりしたとか、通販で頼んだ品物の発送が遅れているなど、小さな我慢が人を大人にしていく。

 榛は、ここ数日で飛躍的に大人になったのだ。

 万能で幼稚な自分を捨てて、誰かに頼るという柔軟な発想ができる大人になった。

 が、それが大きな成長であることは、千歳の知るところではない。

 千歳はここ数日ゆったりできていたとはいえ、彼の両肩に乗っている荷物は今もなお多い。

 だから、幼稚な万能感を千歳はいまだに引きずっているのだ。

 その点で言えば、千歳よりも榛のほうが一歩先へ進むことができていると言える。

 千歳
「そっか。素敵なことだね」

 
「はい。これからは自分のできないことは誰かに頼ろうと思います」

 そんな話をして、二人は水族館の魚を見て回った。

 フィリピンのほうにいる熱帯魚。

 アマゾン川に住んでいる熱帯魚。

 いろいろな種類の魚がいる。

 当然、小さいながらもサメもいた。

 逆に千歳がたまに食べるイワシやマグロはいないな、と勝手に思っていた。

 
「観てください千歳君、たくさん魚が泳いでますよ」

 と榛ははしゃいでいた。

 そういえば、アクアリウムというインテリアがあるらしいが、アクアリウムが好きな人にとって水族館は最高のデートスポットなのかもしれないなあ。

 と千歳は思った。

 貧しい人間にとって熱帯魚を飼うという行為は愚行でしかないのだが、榛はそう感じていないようだ。

 まあ、榛もそこまで裕福ではないはずなので、こうして水族館に来て熱帯魚を楽しんでいるのだろう。

 そうして、熱帯魚を一通り見終わった。

 時刻は午後4時、帰るにはまだ時間がある。

 
「千歳君、これから、どこか寄りませんか?」

 千歳
「どこへ?」

 
「映画館」

 千歳
「いいよ」

 
「じゃあ、映画館までの道案内をお願いします」

 千歳
「うん、わかった」

 そうして榛を映画館まで連れていき、榛が選んだ映画を見た。

 映画の内容は、とても静かなものだった。

 傷ついた感受性の豊かな女の子が自分自身の心の世界に潜り込んでいく話だった。

 セリフは一切なく、主人公の女の子の仕草と音響だけで心情を伝える内容だった。

 最初は白黒だった世界が、女の子の傷が癒えていくうちに鮮やかになり、最後には美しい風景にたどりつき、エンディングに入った。

 映像や音楽、美術が本当に凝っており、本当に美しいものを見たなあ、と千歳は感じた。

 が、同時に自分はこんな美しい生き物ではない、という感想も浮かんできた。

 だから、映画を見終わって映画館を出た時、

 
「きれいでしたね」

 千歳
「そうだね。でも、俺はあんな美しい人間にはなれないよ」

 
「そうですか? 千歳君は美しい生き方をしていると思いますよ?」

 千歳
「そっか」

 榛が真顔でそう言ったので、とりあえず同意することにした。

 いったい何をもってして千歳を美しいと言ったのか千歳には理解できなかったが、表面上だけでも、表面上だけでも。

 表面上だけでも。

 それがマナーというものだ。

 どうして犯罪で生計を立てている人間を美しいと言えるのか。

 それが理解できれば榛が何を言いたいのか理解できると千歳は思ったが、そこじゃないんだよな。


 そうして、二人の一日目の休日が終わった。


 それから1週間が経った。

 千歳は学校に顔を出した。

 そうしたら榛が先に席についているのだった。

 もう大丈夫そうだ。

 千歳
「おはよう、榛さん」

 
「はい、おはようございます千歳君」

 千歳
「何か困ったことはない?」

 
「あ、早速ですか? そうですね、今日も勉強を教えてもらえたらうれしいです」

 千歳
「わかった」

 そうやって、午前中千歳は榛の勉強の面倒を見た。

 そして、今日一日が仕事も含めて終わって千歳は榛のことを思い出すのだった。

 直接会っている時は感じなかったが、誰かに頼るということができるようになっている姿を見て、自分も見習うべきところがあるな、と考えたのだ。

 最近は何かあった後はやりきれない感情を抱えて酒に逃げていたが、今回はそんなことはない。

 代わりに、榛に習ったミルクティーの淹れ方を自宅でもやってみて、家族に振舞うのだった。

 変わらず茶葉をお湯で湿らせて、牛乳と水を温め、そこに茶葉を投入する。

 そして温めておいたティーポッドに注いで、千歳は食卓に呼び出しておいた梓と百々に振舞った。

 
「すごい、おいしい、こんなのどこで習ったの?」

 千歳
「榛さんから。榛さんってこういうの得意みたいなんだよね」

 
「なるほどねー。意外と榛ちゃんもやるなあ」

 千歳
「榛さんはすごいよ。知的障碍なんて言われてるけど、自分に合ったやり方を自分で選べてる。ああいうのを賢いというのさ」

 
「へー」

 千歳
「上から目線かもしれないけど、ここ数日でとてつもない成長をしてるよ、榛さんは。自分も見習わないとな」

 
「それって、どうなんだろう?」

 梓は千歳の顔を覗き込みながらそう言った。

 千歳
「何か間違ったこと言ったかな?」

 
「成長したのは榛ちゃんだけじゃないと思うよ」

 千歳
「と、言うのは?」

 
「千歳君だっておいしいミルクティーの淹れ方を知ったじゃない。それだって成長だよ。少し前の千歳君だったらあり得なかったかも」

 千歳
「別に、自分は要領がいいからこのくらいはできて当たり前だと思うけどな」

 
「あー、生まれつき能力の高い人はそういうこと言うよね。でも、榛ちゃんの努力と千歳君の努力、どっちもすごいと思うよ?」

 千歳
「別に、俺はそこまで頑張ったわけじゃ」

 
「榛ちゃんのほうが頑張ったって言いたいの?」

 千歳
「そうだね、そうかもしれない」

 梓は少し呆れた顔をした。

 そしてため息交じりにこういうのだった。

 
「千歳君は自分の努力を見て見ぬふりするね。自分がやっていることは大したことがないって言いたそうだけど、千歳君は普段から頑張ってるよ」

 千歳
「そう?」

 
「例えば、そうだなあ、千歳君は興味ないかもしれないけど、アイドルは自分磨きを怠らない努力する姿をみんなで応援して楽しむっていう文化があるの。そして私はアイドルがそれなりに好き。だから千歳君の頑張りは全部応援したいなって思ってるよ」

 千歳
「俺がやってる努力なんて悪い方向に使うものばっかりじゃないか」

 と、ここで百々が話に割って入ってきた。

 百々
「お兄ちゃんは暮らしていくのに必死なんでしょう? 私が食べるご飯のお金を用意してくれたり、本当に頑張ってると思う。その頑張りを否定できる人なんていないんじゃないかな?」

 千歳
「どうなんだろう?」

 
「私は頑張ってる千歳君を見てるの好きだな」

 千歳
「そっか」

 千歳はそっけない返事をした。

 どうしてか?

 梓に褒められるとは思わなかったから、こんな時にどんな返事をしたらいいかわからなかったからだ。

 まあ、女性の話は聞き流しておけば問題ないと言われているので、そっけない返事でも問題ないと思うが、梓は意外にも千歳に対して肯定的なコメントをしている。

 そのことにすら千歳は気づいていない。

 だが、ここ数日の変化で一番良好になったのは千歳の精神状態だろう。

 榛とゆったりとした時間を過ごしたことで、肩の重荷を下ろし、リラックスする術を身に付けることができた。

 だから、ストレスに対してどうやって対処したらいいのか勉強できたはずだ。

 今まではひたすらお酒に逃げていたが、今では家族でミルクティーを飲むということがリラックスにつながっている。

 素敵な、なんて素敵な変化なのだろう。

 
「千歳君は頭もいいし、頑張り屋さんだし、確かに少し怪しいことはやってるけど、心から悪い人じゃないんじゃないかな?」

 千歳
「心の錦を信じるというやつかな?」

 
「うん、そうだよ」

 千歳
「じゃあ、そういう素敵な人を目指していこうかな、これからは」

 
「それがいいと思う」

 勿論、今のままでも素敵だが、どうしてかな、千歳は自分の美しさをまだ知らない。

 だから千歳の表情は、あなたは素敵だとか、生き方が美しいと言われると、曇るのだ。

 今も例外ではなく、千歳の表情はやや陰りを見せている。

 とはいえ、梓に悟られない程度にだが。

 今日一日の終わりに飲んだ無糖のミルクティーは甘く、そしてほんの少しだけ苦かった。


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