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 千歳は今日も榛の面倒を見に来ていた。

 9月も半ば。

 千歳は2週間ほど学校を休み榛の面倒を見ていた。

 千歳は榛の部屋のドアをノックした。

 部屋の中にいるであろう榛は何も答えなかった。

 千歳
「榛さん、入るよ?」

 千歳は鍵のかかっていない扉を開いて部屋の中に入った。

 そうして、今日もベッドで眠っている榛の姿を見るのだった。

 千歳
「起きてる?」

 榛は眠っていた。

 今ここで起こすのも違うな、と思い千歳はキッチンに行った。

 そこでミルクティーを丁寧に淹れた。

 やはりゆったりとした時間が流れた。

 お湯を沸かしている時間が心地よかった。

 まず少量のお湯を沸かして、小さめのカップにとっておいた茶葉に少し注いで茶葉を蒸らした。

 余ったお湯をティーポットに注いでポットを温めておく。

 続いて水と牛乳半々の液体を鍋に入れて、沸かす。

 沸いたら、火を止めて先ほど蒸らしておいた茶葉を入れて3分間待つのだった。

 その間にティーポットを温めていたお湯を捨てて、3分経った頃に茶葉の香りが染みついたミルクティーをティーポットに茶漉ちゃこしを通して注いだのだった。

 こうして美味しいミルクティーの出来上がり。

 ティーポットをお盆の上にのせて千歳は榛の部屋に戻るのだった。

 ミルクティーの甘い香りで榛は目を覚ました。

 が、春でもないのに甘い香りを嗅いでしまったせいか、寝起きなのも合わさっておぼろげな意識だった。

 精神的な弱りと寝起きのボーっとした意識、そしてミルクティーの甘い香り。

 実に蠱惑こわく的だ。

 
「あぁ、千歳君」

 千歳
「どうしたんだい?」

 
「まだ眠っていたいです」

 千歳
「うん」

 そうして榛はまた眠ってしまった。

 榛の寝顔はとても無防備で、ここに悪い人が現れたら大変なことになるだろう。

 まあ、千歳は悪い人なのだが。

 またゆったりとした時間が流れ始めた。

 榛は一人で何とかしたいという思いというが、千歳と一緒にいると安心するらしい。

 千歳は千歳なりに人間の弱い部分は知っているつもりだ。

 弱さゆえにお金を差し出してしまう人間を何人か見てきたが、それでもお支払い頂いたからには仕事はきちんとやる。

 それでも、失敗するときはする。

 仕事が失敗したときは、全額を返金して謝罪することに組織のルールはなっているが、それでも依頼人の願いは叶わなくなる。

 だからこそ、人間にはお互いに許しあえる関係性が必要だ。

 榛にそれを教えるにはどうしたらいいのか?

 あるいは、榛が持っている知性では理解できない話なのか?

 でもまあ、千歳には素直に甘えているので、千歳が榛の心を解きほぐすことができる唯一の人物であるのはなんとなくわかる。

 千歳は思った。

 どうしてだろうな、人間というやつは自分自身が弱れば弱るほど頑なになってしまうのだ。

 確かに千歳も多少は頑なな人間かもしれないが、榛ほどではない。


 しばらくして榛は微睡の水瀬から目を覚ました。

 どうやら朝起きるのが苦手になっているらしい。

 いつもは学校に一番早くやってくるのは榛なのだが。

 千歳
「おはよう」

 
「おはよう」

 榛はまぶたをこすると、

 
「ミルクティーありますよね?」

 千歳
「あるよ」

 そう言って千歳は冷めないように厚めの布をかけたティーポットを取り出した。

 そうして、カップにミルクティーを注ぐのだった。

 榛はそのミルクティーを飲んで、ほっと一息ついた。

 
「おいしい。千歳君、おいしいミルクティーを淹れられるようになったね」

 千歳
「まあ、榛さんにやり方を教えてもらったので」

 
「千歳君はお嫁さんに欲しいなー、なんて」

 千歳
「それもありかもね」

 
「千歳君って、誰かのことを否定したり悪口を言ったりしないよね」

 千歳
「そうかもね」

 
「そうだよ」

 確かに、千歳は悪口を全く言わないな。

 なぜなら、悪口を言うぐらいなら悪行に加担するからだ。

 言葉ではなく行動で示すタイプ。

 そうでなければ暮らしていくことができない。

 そういう事情を榛は知っていて言っているのか、それとも知的障碍ゆえに想像できないのか。

 
「千歳君は、どうして私をこんなに助けてくれるんですか?」

 榛はティーカップを凝視しながらそう尋ねた。

 千歳の顔を見て言わなかったのは、何か後ろめたいものがあるからだろう。

 それとも、ただ単に恥ずかしいからなのか?

 千歳も千歳で榛に目線を合わせることはないので、榛の表情をうかがい知ることはできない。

 が、その時の榛の顔は緊張で少し赤みを帯びていた。

 千歳はこう答える。

 千歳
「俺は、自分の手の届く範囲内の仲間を全力で守っているからだよ。テレビゲームの世界には世界を救う勇者が何人も現れたりするけど、俺はそんなんじゃない。そんな力強い存在じゃない。だから、手の届く範囲内、今回は榛さんを助けただけ」

 
「本当にそうなんですか?」

 千歳
「本当だよ」

 
「本当に?」

 千歳
「本当」

 榛はここで納得した。

 千歳はここで榛の表情を一瞥した。

 そこにはほんの少しだが笑顔が戻っていた。

 が、同時に照れくささというか、そのほかの感情さえも混じっているのだった。

 榛はやりどころのない感情をどう整理していいのか分からず混乱している様子だが、それは知的障碍だから感情の処理が追い付かないだけで、悪い感覚を覚えているわけではない。

 だから千歳は榛の心の整理がつくまで待っていることにした。

 千歳はあまり動かず、ただじっと榛が何を話すのかを待っているのだった。

 たびたび榛は千歳の表情を覗き込もうと視線を合わせようとするが、千歳が反応するたびに視線を逸らすのだった。

 そういう仕草が榛は小動物なのではないかと千歳に感想を抱かせてしまう。

 やがて、布団をかぶってうずくまってしまった。

 いったいなぜそんな行動に出るのか千歳にはわからなかった。

 千歳
「榛さーん。今日の体調はどう? 教えてくれると嬉しいな」

 榛は毛布の中からこういった。

 
「頭がぼんやりして、変な気分」

 千歳
「それは精神的な病気の症状だね」

 
「違うと思います」

 千歳
「そっか。じゃあ風邪?」

 
「違うってば」

 千歳
「まあいいや。それ以外に悪いところがないなら、平気じゃない?」

 
「はい、千歳君がそばにいてくれれば」

 千歳
「そういうわけにはいかないかな。仕事に戻らなくちゃいけなくなる日もあるし」

 
「そうですよね、そうだよね」

 榛はまたボーっとしてしまった。

 また整理できない感情を内に抱えて榛は毛布の中でもだえるのだった。

 これを言うのもなんだが、榛は自分自身の感情を自分自身で把握できないのだろう。

 千歳に対して抱いている感情も、自分自身の置かれた立場に対して抱いている感情も、一度に扱いきれない大きな悩みになってしまっているのだ。

 そんなこと、未熟な千歳には察することすらできないのだが。

 だから、ゆっくり時間をかけて解決していけば、榛の気分の落ち込みも次第に解決していくだろう。

 という解決の糸口を見つけて千歳はひとまず安心した。

 千歳
「もう、行っていいかな?」

 
「ダメです」

 千歳
「どうしても?」

 
「どうしてもです」

 千歳
「ごめん、もう出るよ」

 
「はい」

 榛の表情をうかがい知ることはできないが、千歳は学校に戻ろうとするのだった。

 千歳
「ミルクティー、まだあるから、それで我慢して」

 
「うん」

 そうして千歳は学校に戻った。


 学校にて、職員室に千歳は呼び出された。

 相変わらず先生とのご対面だ。

 先生
「今日は千歳君に任せた榛さんの介護の話ですが、いかがでしたか?」

 千歳
「業務内容に含まれていないことをやらせないでください」

 先生
「おやおや、別に仕事として命じたわけではないですよ。とはいえ、榛さんの介護をしている最中の給料を千歳君に出そうと上層部は言っていますね」

 千歳
「それはありがたい」

 先生
「一応うちはホワイト企業ですからね。社員のことは全力でサポートするのが常識ではあります」

 千歳
「本来なら医療機関にかかるべきでは?」

 先生
「それもありなのですが、榛さんの症状がとても悪化したらその手もあります。が、今の病状だとすると千歳君を派遣しておけば平気だろう、と上層部は考えたわけです」

 千歳
「信頼を頂いているようで何よりです」

 先生は仮面越しに千歳の顔を見る。

 先生
「千歳君も、少し休めたようですね。最近疲れた顔をしていたので、今回の榛さんの介護は千歳君の休養も含めていることをここで明かしましょう」

 千歳
「聞いてないですね」

 先生
「話していませんからね。千歳君は最近頑張りすぎです。先月の篝さんの件といい、千歳君にはだいぶ負担をかけていますからね。疲れているようにも見えます」

 千歳
「そうかもしれませんね」

 先生
「千歳君は特別支援学級で新しい知識を得られるほど勉強不足でもない。だから学習面に関しては問題がないと思っています。それから、有給休暇をほとんど取得していませんよね?」

 千歳
「そうですね、放課後に仕事をするとなると、有給休暇という概念は案外忘れてしまいますね」

 先生
「学生労働者にも有給休暇はあるので、千歳君には勉強ではなく仕事のさぼり方を教えてあげましょう。明日から5日間、学校にも仕事にも来なくて大丈夫ですので、自由に過ごしてください」

 千歳
「確かに。そうさせてもらいます」

 そんなわけで、千歳は5日間学校から追放されるのだった。

 そしてさっそく物部に連絡を入れる。

 暇になったから仕事を入れてくれて問題ないと。

 そうしたら『有給は休めアンポンタン』と返信が来た。

 あの温厚な物部さんがアンポンタンという強めの言葉を使って千歳を叱咤激励した。

 それほどまでに有給に働くというのは愚かな行為らしい。

 と、いうわけで、千歳は生まれて初めての有給休暇を取得したのだった。

 そうして、千歳は何をするでもなく榛の部屋に戻ったのだった。

 道を歩いて施設の門をくぐり、建物の中に入って榛の部屋のドアをノックした。

 そうしたら顔色の良くなった榛が迎え入れてくれた。

 千歳
「なんだか、学校には5日間来なくていいって言われちゃった」

 
「そ、そっか」

 榛はやりどころのない感情を抱えて、千歳に休みの日の予定を聞いた。

 
「千歳君はお休みの日に何をするのか決めてますか?」

 千歳
「そうだなー、勉強かな? それ以外にやることないし」

 
「そ、そんなことより私と一緒にお出かけしませんか? 私も先生にしばらく学校には来なくていいって言われてるので、あと仕事にも。だから、明日一緒にどこか行きませんか?」

 千歳
「ああ、いいね、それ」

 
「しばらく千歳君のお世話になっていたので、今度は私が千歳君を楽しませてあげたいです」

 その言葉を言うとき、榛はやたらもじもじしていた。

 何か後ろめたいことがあるのだろうか?

 いいや、違うな。

 千歳は千歳なりに榛が何を考えているのか理解できた。

 千歳
「今度一緒に遊びましょうってこと?」

 
「はい、そうです。明日、どこかへ出かけましょう」

 千歳
「そうだね、それがいいね」

 
「どこへ行きたいですか?」

 千歳
「榛さんに任せるよ」

 
「じゃあ、水族館へ行きたいです」

 千歳
「わかった」

 
「明日も私の部屋に来てください」

 千歳
「わかった」

 
「あ、それからミルクティーおいしかったです。また千歳君のミルクティーが飲みたいです」

 千歳
「わかった」

 千歳はこうして榛の言っていること全てにうなずくのだった。

 夕日が沈み今日はもう家に帰って休むだけの時間になって千歳はベッドの上で横になり、天井を見上げるのだった。

 相変わらず色気のない天井だが、聞こえてくるのは梓と百々の楽しそうな話し声。

 千歳は自分の人生が少しずつ彩り豊かになっていることに気づいた。

 昔は犯罪をして生活費を得ることが世界の全てだと思っていたが、クラスメイトに気遣いをしていくうちに、千歳の内面が満たされていることが分かった。

 明日榛と一緒に出掛けることになるので緊張で眠れないかと思えば、案外ぐっすり眠ることができそうだった。

 心地のいい眠気に身をゆだねて、夜の23時に千歳は眠りにつくのだった。

 ここ数日、忙しさから解放された千歳は久々に深く深く眠ることができたのだった。

 それができたのは榛のおかげ。

 榛には感謝してもしきれない。


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