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何も起こらない-写真新世紀より


 2020年、第43回の写真新世紀のグランプリ候補に知った名前があった。僕が知っているというだけで、向こうは僕を知っているわけではない、地元の大きな美展に熱心に作品を出している人なら、あー、あの、となるくらいは知られた青年だ。というのも、その美術展で最年少で無監査となった人だからだ。
 無監査となったときの写真は、大学かどこかの建物に挟まれた空間、有り体に言えば空が写っていた。なんの変哲もない、たぶんに誰もが、で、これのどこが?となるような一枚だったが、それを選んだ審査員は、その他の実に写真らしい写真たちではなく、なぜそれを選んだのか、分からないくらい何事も始まっていない、そんな印象の光景だった。そしてその写真は確かに妙な吸引力があった。
 しかし僕は、彼のことをその前から知っていた。県内の高校の写真部の作品が並ぶ展覧会で、彼の作品を見たのだ。出展された3枚は、そのどれもがとても写真らしかった。一枚は競泳選手と水飛沫が光に反射して輝いているもの、それから老人と彼の仕事場らしき空間が映し出された退色気味に調整された一枚、そして恐らくはホームレスの方であろう男性の笑顔を真正面からとらえたモノクロ。こんなのを、高校生が? と息を呑んだ。かなわないわーと唸った。他の高校生が撮った今という瞬間の写真たち、そしてそれは、それから何度か年度に渡って見に行ったときに感じた既視感(撮影者がかわっても高校生の今、という題材はどうしたって変化しづらい)があるのだが、そのような写真たちのどれにも似ていなかったし、この作者は賞味期限のないものを撮ろうとしているな、と感じさせ、何よりエネルギーがあった。
 そんな彼の名前を、大きな公募展で見ることになるとは。

 Canon新世紀のサイトを開いたのはほんとうにたまたまだった。そこに彼の名前があった。ん?となって、でも確かにしっかりと覚えのある名前だった。無監査のときは新聞に大きく名前があって、あー、あの写真の子か、と思って見に行ったのだし、忘れるわけがなかった。なんなら出身の高校さんは、もっと彼のことをアピールしてもいいくらいだとも思った。知っていればの話だけども。

 ただ、そのサイトで観たのは、高校の写真展で観たそれとはだいぶ毛色の違う作風だった。
 そこには何もない。それが第一印象だった。どの写真も見た目は均一に明るく、しかし決して明るい、つまりハッピーな写真ではない。大げさに言えば狂気が写真全体の表面に薄く貼り付けられているような、強張りを感じるような、写真。
 そして写されているのは、それでいてなんの変哲もないものたち。無機質で記号的。情緒に訴えかけるものがなにもない。普通に歩いていたらそんなところに注目もしないだろう。そんな日常……いや、日常よりももっと他人事のような、と言えばいいのか、そんなものが何枚も撮られている。
 それは無監査になったときに見た写真の方向性に似ていて、それよりももっと乾いた感じ。ドラマで言えば、ドラマじゃなくて、そのドラマが始まる前のコマーシャル、それでいて何も宣伝をしていない、そういう感じだろうか。

審査評 選: 安村 崇

“出くわす”という印象が強い作品です。出来事と呼べるようなピークを対象としているのではなく、写真にしたことではじめてその兆しが感じられるような、いわば出来事以前の状態を丁寧かつ大量に採集しています。447枚の全てが横位置でまとめられており、隙のないフレーミングは観る者の視線を鈍いピークへ巧みに誘導します。デジタルカメラの光源、光量を選ばない軽快さと仕上げの均一性が作品に大きく影響しているとはいえ、これだけの質と量を集めてくる作者の集中力は見事です。背景に複雑な世界の存在を感じられるからこそ、この豪腕な単純化が清々しくもあります。
写真新世紀 審査員評

 この、「出来事以前」という言葉が強く印象に残る。彼のこの写真たちは、何も始まってはいないのだ。写真にしなければいつまで経ってもこれから起こる出来事は起こらない。そのまま何事もなく過ぎていくだろう時間を、写真にすることでかろうじて何かが起きる予感として感じさせ、その出来事が起こるための要因を、写らなかった背景に見いださせようとする。そう言う想像力を、観る側が持たなくてはならない写真だ。それでいて400枚以上作品はあるのだから、パラパラとめくろうとすれば観る側の想像力が追いつかない。なに?と思うころにはもう次の何?が待っている。 
 この作品が展示されたときは複数のディスプレイに映し出すという形をとったときく。観る側はまさに何?となり、その答えが出る前に次の写真に移っていく。

 これは私たちの日常そのものだ。何か面白いものを見つける、面白いことが大事。映えなくてはならないし、バズるためにはちょっとヒトノミチなんかも外したりする。インスタやTwitterはそんな濃い味付けのものが流れ、コンプライアンスの厳しいテレビが苦戦を強いられつつ、例えばご飯モノ、旅モノ、無難なコンテンツを使って、ひな壇芸人の方たちがむやみに盛り上げようとする(だからひな壇芸人の方で、本当にすごい人は、ものすごく自然な口調で話していて違和感がない)。
 そういう油っこいものばかりに慣らされた私たちは、足下に咲く花に気づくための目が養われない。何かがあるかもしれないと、確実に手に入れたいものでなければ待つことができない。ここ、面白いかもしれないというアンテナを張ること、張り方そのものも忘れてしまっていて、いつか、どこかで見る夢ばかりがむくむくと膨らんでしまってはいまいか。つまらなさへの耐性が低いのだ。
 そのアンチテーゼとでも言いたくなる、それが彼の写真だと思う。刺激に慣らされた人間が見ないであろう光景を、ぐいっと見せつけてくる。足下にタイトルのない物語が落ちている、そのことを無言の圧力と他人事のように冷たいと言わんばかりのフレーミングで突きつけるのだ。

 彼は地元も地元の人で、あまりに嬉しく、一人盛り上がってDMを送ったことがある。見ず知らずの僕にもすごく丁寧な返信をしてくださった。できることなら一緒に酒を酌み交わしつつ、彼がどんな視点を持っているのか話を聞いてみたい。僕には到底思いもつかない視点を、垣間見れるだろうと期待して。


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