「太った豚より痩せたソクラテスになれ」

 私は無職である。働きたいと最近思いたってアルバイトの応募を何件かしてみて、今は連絡待ちの状態だ。だが、働こうと思って面接を受けて以来、精神的に不安定で鬱々としてしまう。私は外面は以外と明るくて、おしゃべりもそこそこに、人の望む回答を考えて臨機応変に返答を変えられる面接には強いタイプだ。しかし受かってみると段々と同期との差がついてポンコツであることが露呈する。データ蓄積など集中力と単純作業の繰り返しなどには強いが、シングルタスクには強くてもマルチタスクになるとてんでダメで、労働者としては使いどころが難しいパラメータの偏った人材であると自分では思っている。精神薬の効果が切れると鬱の症状が一気にでて社交の仮面を被ることはできなくなるし、通常のフルタイム勤務の継続は困難を伴う。

 美しいものを観て、感じて、社会の役には立たずとも、自らの心の豊かさを保つことならきっとできる。しかし、社会の歯車と呼ばれるものすらなれない自分がいて、一般に言う労働の対価と社会に還元される人々を豊かにするものは生産できていない。社会のファクトとして私は無職のダメ人間であり、いくら精神が高潔であろうとも世間の目は厳しく、働いていないことを言うと励まされたり憐みを向けられたりする。その瞬間は違和感を伴いながらも少し辛い気持ちになる。

 私は私の命というものについて、自分を信じるということについて自分の尺度で生きようと思った時があった。その時の私は自由を感じてとても清々しい気持ちで毎朝陽の光を浴びに庭に出ていたし、自然の呼吸の中に自分が存在することに歓びを感じていた。生産性などなくとも命を預けられただけで幸せだと感じた。私は私の魂が在るだけで美しいと信じたい。

 「太った豚でいるよりも、痩せたソクラテスであれ」という言葉があったと聞いた。今の社会の人々は、その言葉を聞いてどう思うのであろうか。怒る人がおり憧れる人がおり共感する人がいるかもしれない。私はほんの少し救われた。金はなく生産性などなくとも、私が”精神の貴族”でいることは自由なのだ。例えるならば『下妻物語』の竜ヶ崎桃子嬢の目指す自己を貫き通す自己の、個の強さがあってもいいのだ。私の欲しいものは”精神の貴族”であることだ。例え孤独であろうとも、後ろ指を指されようとも、そのことに涙することがあっても、自分が最も強く欲する自由を求めることにどんな罪があろうか。

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