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知られざる仙台と正教

 実は仙台の中心部にはハリストス正教会がある。

 日本に正教を伝えた聖ニコライ(本名イオアン・デミトリヴィチ・カサートキン)は1861(文久元)年に来日し、日本人信徒にも洗礼を施したが、初期の正教徒には開国〜維新の混乱期に彼を頼って箱館に流れていった仙台藩出身の者が多かった。もっとも有名なものはイオアン小野荘五郎で、彼の自宅が仙台・東一番町にあり、そこを拠点に伝教が行われ、明治6年の布教自由化以降は聖堂建設のための用地取得も講義所を中心になされたため、現在も仙台ハリストス正教会は旧東一番町にある。

 イオアン小野と共にイアコフ高屋仲、ペトル笹川定吉らが仙台にやってきたのははやくも1871(明治4)年のことで、明治5年には迫害を受けるものの明治6年以降は自由な布教が認められた。

 聖ニコライは1872年に函館から上京し、1884年には御茶ノ水のニコライ堂(これは通称で、正しくは東京復活大聖堂という)の建設に取りかかっている。このことからも分かるようにニコライは迅速に布教活動の拠点を増やすことを重視しており、明治6年にさっそくイオアン小野にも上京して布教するように書状を送ったが、イオアン小野は入信者に信仰を保たせることの困難から上京は断ったという。

 その後もニコライの指示や提案に従わないことが続いたため、イオアンは仙台における伝教師としての役割を失ったものの、その後は東海道や鹿児島への布教の役割を担った。鹿児島での布教の様子を本会に報告する文書が残っているが、「鹿児島では男子も女子も文字を知らない。風俗は野蛮で遊蕩するものが多く、昼間から大酒を飲み醜く聞くに堪えない歌を歌う。風俗や方言の適切でないことを説くと最初は低頭して聞くが、すぐに怒って威張り出す。霊魂の楽しみも知らず、肉体の楽しみも少なく、上等の楽しみを知るものがいない」と酷評している。

 イオアンは戊辰戦争に出兵したという記録がある。かつて戦って敗れ、賊軍との烙印を押された敵である薩長の実情を目の当たりにして上のように舌鋒鋭く批難したのであろう。ともかく正教会の西日本への伝教では、維新では不遇を託った仙台の藩士らが重要な役割を果たしていたのである。

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