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やっぱり哲学が人生を救う

 久しぶりに記事を投稿する。このところの函館は-10度になる日もあれば今日みたいに+10度でダウンを着ていると暑いくらいの日もあり、散発的に大雪が降るので地面が凍ったりぐちゃぐちゃになったりと慌ただしい。
 
 まだ引っ越して一ヶ月も経たないので、どれくらい暖房をつけているとどれくらい光熱費がかかるのかということの感覚がよく分からない。先月初回の検針票が入っていたが、それを見ると今月の検針は月末までないらしい。ということはその日になるまでどれくらいガス代がかかるかわからないのか?と思ったが、よく考えれば自分でメーターを見てガス代を計算すればいい。というので建物の裏にあるメーターを雪をかき分け見に行って、計算したところそんなに高くならないというので安心してガス暖房をつけている。

 こういう寒さの厳しいところで生活していると、アメリカ中心の金融の空虚さと、ロシア・中国を中心とするユーラシア大陸のコモディティ経済圏のリアリティの対比というものが身に沁みて感じられる。NFTだ仮想通貨だデジタルだなんだかんだという前に、衣食住のインフラとコモディティの供給がなくなれば人はすぐに死ぬだろう。逆に衣食住が足りてそれなりにうまいものを食っていれば、人間の生活はそれでよいのだということもある。

 最近はSNSを見る時間も減ったが、それでも時折無聊の慰みにネットを見ると空虚な栄誉や理念を追いかけている人の話で満ちあふれている。中には宣伝や工作員も多いのだろうけど、空虚な理念や理想の存在をガチで信じている人も結構多いのだということが、疫病を恐れる人々の様子を観察していてもようやくわかった。

 西洋哲学の歴史のなかでは様々な議論や論争があったわけだが、その中に普遍論争というものがある。「普遍(Universals)は実在するのか」という問題を扱うわけだが、これでは何のことか分からないだろう。

 たとえば「犬」という名称は、具体的に実在するポチとかハチとかの個別の犬、それから「犬」というカテゴリ全体を表すわけだが、具体的な個体としての犬に共通する要素としての「犬」を前提とするからこういう概念が成立する。つまり、ポチもハチも「犬」という名称を与えられる要素というか権利みたいなものを共通して持っているので、ポチは犬だしハチも犬だ、ということがいえるわけである。「普遍」というのは、この共通して持っているもののことだと理解すればよく、それは果たして実在するのか?という問題である。実在すると考えるのが実在論者(realist、リアリスト)であり、いやそれは便宜上犬というカテゴリが名称として付されているにすぎない、普遍は唯の名称にすぎないとするのが唯名論者(nominalist、ノミナリスト)である。

 別の言い方をすると、「犬」といったときに個別のポチとかハチといった具体的に存在する個体以外に、抽象的な「犬」概念そのものが実体として存在するのだと考えるのが実在論者であり、そうでないのが唯名論者ということになる。

 これは犬を例に考えると別にどっちでもいいじゃんという感じの話だが、「犬」の代わりに会社とか社会とか、愛とか正義とか友情とか、はたまた疫病とかを例に取ると、とても根深く身近な問題を扱っていることに気づかされる。よく「会社に忠義を尽くす」とか「会社のために死ぬ」みたいな言い回しをするが、じゃあその会社とは一体なにを指すのか。社長?経営陣?取締役会?株主?あるいは会社の備品とか商号なのか?と考えていくと、実際のところ何に対して忠義を尽くしているのかよくわからなくなってしまう。

 こういうときに私のような唯名論者は、「会社っつったって結局、備品とか取引先とか会社の資産とか、そういうものひっくるめてなんとなく呼んでるものに過ぎないんだよな、会社への忠義とかってアホみたいな話だよな」というふうに考える。というか逆に、そういうふうに考える/考えずにはおられない人が唯名論者だと言ったほうがいいかもしれない。

 で、話の流れから分かると思うが、世の中驚くほど実在論者が多いのである。「会社とは具体的に何を指すのか、それはよくわからないけど、会社に忠義を尽くすのは大事だ」というふうに考える人が。抽象的な概念、名称としての概念に過ぎないであろうと(唯名論者的には)思われるものに、個別具体的に実在するモノと同等のリアリティを感じられる人が結構多いようなのである。よく実体のわからないものに忠節を尽くしたり、まったく関係のない他人や世の中について立腹したり、どこかの誰かの何かについて一生懸命に議論したり目を三角にしたりしている人たちに対してどこか空虚さを感じるのは、彼らが実在論者で、あなたが唯名論者だからなのだ。

 これはどちらが優れているとか正しいということではない。また、「〜論者」と呼んでいるから誤解を招くが、論理的な推論や説得によって、実在論者が唯名論者に鞍替えしたり、その逆になったり、つまり考え方を変えるというのもまずあり得ない。おそらくこれは意見とか見解というよりは宗教的信念に近いもので、生まれながらの特性によって、ある人が実在論か唯名論かどちらの傾向を持つかというのは決まっているんじゃないかと思う。

 神経科学の領域にはクオリアという概念があって、たとえば同じ赤い色を見ても人によってその知覚のされ方はまったく異なっている。その感覚的な経験のことをクオリアと呼ぶ。これと同じように、ある概念や言葉についても、その知覚のありようは人によってまったく異なっていて、その違いの一つが普遍論争における唯名論と実在論の違いなのである。こうしたことから、議論による合意や共感の不可能性が生まれてくる。ある人にとってのリアル(real)は別のある人にとってはノミナル(nominal)な存在に過ぎず、そのスタンスの違いがお互いに許せない。言語化されない感覚的な差異であるだけに余計タチが悪い。論理的には正しいけれども納得がいかないという議論が生まれてくるのは、これが一つの原因である。

 近代的な教育=洗脳は、当然のことながら実在論者を生み出すように設計されている。国家だとか、家族だとか、会社だとか、そういうものが実際に存在していてエラいんだというふうに刷り込んでおいたほうが、支配には都合がいいからだ。唯名論者のほうが社会の虚構性や劇場性を身体感覚としてよく理解しているので、実在論者からは陰謀論者として批難されやすい。

 普遍論争は西洋に特有で、東洋には(私が不勉強なだけかもしれないが)見当たらない。東洋では、そもそも言葉によっては真理を表せないという考えが強いからだ。例えば禅では不立文字といって、ものごとの真理は文字では表せず、日々の生活や修行の実践の中で悟りを開くことを教えている。

 とはいえ、西洋哲学のいいのはこういう日常のなんとも言いがたい問題について言語化して考える枠組みを用意できるところだ。この枠組みによって、議論で合意に至らなくてもイソップ童話のキツネよろしく「あいつは実在論者だからだ」といちおうの精神安定になる言い訳ができる。これで中世以来の伝統ある普遍論争の権威を借りて自分を納得させることができるわけで、やっぱり哲学が人生を救うのである。


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