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嵐を避けて生きるべし

 だいぶ株価が下がっているようである。アベノミクスだの、リーマン後の金融緩和だの、さらに辿ればニクソンショックだのFRBの設立だのといった現代的な金融体制のウソが一気に火を吹き始めたというところで、まあいよいよ始まったのか、という感じである。ロシアでもGoogleやiOSをブロックしはじめるということがニュースになっている。金融と通信の両面で本格的に動き始めたということなのだろう。

 これだけ株価が大暴落して、日経平均VIがコロナショック並みに暴騰しているのを見るとちょっとはオプションでも買っておけばよかったかなという気もするが、ポジションを組んでいるとどうしても値動きが気になって、読書したり文章を書いたりアニメを観たりゲーセンに行ったりといったことに集中できなくなってしまう。

 金融バブルがはじけたりドルが崩壊したりしたとしても、一定の日本語学習需要はあるし、ドルがダメなら人民元でもルーブルでもルピーでも支払ってもらえればそれでいい。実需に基づいた仕事はこういう手堅さがあってよい。ロシアではGoogleやiOSがブロックされてしまうかもしれないが、ロシア製のAstra Linuxを使い、VPNで接続すれば仕事も送金もなんとかなるであろう。

 こういう実需に基づく仕事は、株価がどうだとか証券市場がどうなろうと、まあ多少の不便を強いられるようなことがあったとしても壊滅的になくなるということはない。こういうのが本当の資産であって、次点が手元に自分で手にすることができるものであろう。画面上の数値は吹けば飛ぶしカウンターパーティリスクに満ちている。それに別にまだロシアに顧客がいるわけではないし、とりあえずは英語圏向けにドルで仕事をしている。仕事をしているということが重要であって、報酬やツールはそのとき都合のよいものを使えばそれでいい。不換紙幣の時代が終わり、実体経済重視の世の中になるとはそういうことだろう。

 先日の峯岸氏のnoteでも言及されていたが、現代人は宗教心や自分自身の満足ということを忘れてしまって、ただ社会的な階梯やら資産の多寡といった可視化される指標を高めることだけに翻弄されている。

 株価だの経済指標だのは自分でどうすることもできない。自分でどうすることもできないことは天が決めたとおりにしか動かないのであって、自分をはじめとする人間の責任ではない。こういうふうに気楽に生きられるように宗教というものが生まれたであろうに、諸般の事情で宗教もおかしなものにされてしまった(詳細はリンク先のnoteなどを参考にすればいいだろう)。

 近代における理性は、もともとカントが『純粋理性批判』のなかでその妥当する領域を決めていた。「批判」とはドイツ語のKlitik、英語のcriticsだが、これはギリシア語の「分ける」という動詞に由来し、ある議論の妥当する範囲を分けて画定するというのがほんらいの「批判」という言葉の意味である。日本では、バカどもが「批判」と「批難」の区別もつけることができないでいるが、本来の「批判」はある主張の正しい部分と正しくない部分を切り分けるという事務的な作業に過ぎない。

 それを、ヘーゲルが万能な理性、現実をすべて作り上げる理性というようなおとぎ話に変えてしまった。ショーペンハウアーの言葉を借りれば、ヘーゲルの理性は「カントが立ち入りを禁じた領域に、四頭立ての馬車でずけずけと入り込んでいく」ものだった。

 そのヘーゲルから生まれたのが、マルクスの共産主義だ。共産主義の理想は「能力に応じて働き、働きに応じて受けとる」というものだが、ここではそもそも人間の能力を正確に測定することができるのか?能力に応じて働いた成果を正しく評価できるのか?といった、測定可能性や観測可能性に関する問題は等閑に付されている。

 社会主義の計画経済がなぜ失敗に終わるのかという問題に対する、フリードリヒ・ハイエクの答えも、この「事前にすべての情報を知ることはできない」という理性の非・万能性に立脚している。計画経済は、需要に基づいて生産し配分すれば最適な計画であるとするが、そもそも事前にどこでなにがどれだけ必要になるのかということはわからない。宝くじの当たりくじだけ引けば儲かる、という与太話と同じで、事前に当たりを知ることができないということが無視されているバカな話だ。

 本来世界や社会の動きは、人間には予測もつかないもので、従って人間がそれに対して責任を負わなければならないというような類いのものではなかった。強いて言えば、為政者に十分な徳がなければ天下が乱れ人民が苦しむ、という程度のもので、ふつうに生きている一般人は好きなように生活していればよかったのだ。それを、近代の馬鹿げた万能な理性という仮説と、民主制という「選んだおまえらの責任だ」という責任転嫁のロジックによって、なんか庶民が悪いみたいな観念を埋め込まれている。

 近代社会が終わるということは、そうした馬鹿げた茶番も終わるということだ。このような虚妄に対して自覚的であり、健全な宗教心を持った人々だけが心穏やかに生きていくことができることだろう。


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