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前提を疑うということ

 経済学部に進学する場合、東大では2年次の前期までは前期教養課程で、後期から専門課程の授業が始まる。駒場の1323教室に集められ、8科目を強制的に履修させられる。そのうちたしか6科目の単位を取らないと卒業できないので、取り漏らしがある場合3年次から本郷に進学しても駒場に授業を受けに行く羽目に陥り、駒バックと呼ばれている。今はどうか知らないが。

 その1323教室での講義から本格的な経済学部の講義が始まるわけで、講義のあとには大学院生のTA(ティーチング・アシスタント)がいて、質問を受け付けることになっていた。まあこれも院の教育の一環なのだろう。

 今からもう10年前になるが、1323教室で講義を受けていた時期に一回だけTAに質問しにいったことがある。経済学の前提として完全競争市場とか効用関数の性質とかを仮定しておくのだが、これはあまりにも現実とかけ離れているんじゃないかとかそういう話を、私としては半分雑談くらいのつもりで聞きに行ったのだ。

 ところがそのTAは私が質問するととたんに不機嫌になって、見下すような目をしながら「それはそういうもんなんだよ」と吐き捨てるように言ってほかの人の質問に移っていってしまった。私としては、表面的な計算とか用語とかではない経済学の本質や根幹に迫るようなディープな質問だろうと思って、半ば得意げでもいたのだが、ディープすぎてどうやら触れてはいけない話だったらしい。その瞬間に、権威というか体制というか、そういうサイドにいくためにはある種の思考停止や考え・思索の領域を狭めることをしなければならないということが全身で納得され、そんな思索の不如意を余儀なくされる人生というのは楽しいのだろうかというところまで考えてしまったのであった。

 その後何年か経って、フリードリヒ・ハイエク(経済学者としては権威だ)の『市場・知識・自由』という論文集の中に、彼がまさに私が抱いていた経済学の前提に対する疑問について書いている論文を発見した。完全競争市場という想定は、そもそも競争なるものをまったく機能させなくなるものだという話で、フリードマンの師匠とされるハイエクがこれを書いているということで私の素朴な疑問にもいわばお墨付きが与えられたような気がした。

 デカルトじゃないが、物事は徹底的に疑い、一応もうこれは疑いようがないというところから出発しなければならない。もちろんすべてを証明することはできないので、ある程度自分で納得が行くようなちょうどいいところで疑うことをやめにしなければならない。これ以上疑うのを一応やめておくポイントとなる命題を公理(axiom)と呼ぶ。学部の2年生ごときも納得させられない公理系の上に立っている論理というのははかなくももろいのではないかということを当時感じたものだった。その砂上の楼閣はもはや崩れつつある、というか崩れてしまった。経済以外の領域でも同じことだろう。本当にこれは疑いえないというような、人間の実生活や実感に根ざしたものの考え方に切り替えていかなければならない。

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