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四稜郭を知っていますか

四稜郭もあった

 函館といえば五稜郭が有名だが、四稜郭というものもある。

 四稜郭の入り口に掲げられている看板の説明内容:

史跡 四稜郭 昭和9年1月22日史跡指定
 明治2年(1869)春、五稜郭にたてこもる旧幕府脱走軍は新政府軍の攻撃に備えて各地に防御陣地を築いたが、五稜郭の背後を固めるため、その北方約3キロの傾斜面台地にも洋式の台場を急造した。
 これが四稜郭である。
 四稜郭は、蝶が羽を広げたような形の稜堡で、周囲に土塁と空壕をめぐらし、郭内(面積約2,300平方メートル)には、四隅に砲座を設けたが、建物は造らなかった。
 なお、地元の言い伝えによると、旧幕府脱走軍は士卒約200名と付近の村民(赤川・神山・鍛治村)約100名を動員して、昼夜兼行で数日のうちにこの四稜郭を完成させたといわれている。
 明治2年5月11日、新政府軍は箱館総攻撃を開始した。
 同日未明、新政府軍の岡山藩・徳山藩の藩兵は赤川村を出発し、四稜郭の攻撃を開始した。松山四郎次郎率いる旧幕府脱走軍は四稜郭の防御に努めたが、新政府軍には福山藩兵も加わり、さらに長州藩兵が四稜郭と五稜郭の間に位置する権現台場を占領したため、退路を断たれることを恐れた旧幕府脱走軍は五稜郭へと敗走した。
 5月18日には、五稜郭が開城され、榎本武揚以下が降伏して箱館戦争は終わった。

 四稜郭の概要は上記のとおりで、位置的には五稜郭から北北東の場所にある。五稜郭公園からは車で10分程度の場所だ。五稜郭は桜を観に来る観光客でごった返し、ラッキーピエロも長蛇の列ができていて不便なのでマイナーなところに行こうと思って行った。

 五稜郭ほどの本数はないにせよ桜も植えられており満開の桜を楽しむことができた。

 看板の説明にもあったとおり建物はなく、稜堡を四方に配し土が積み上げられているだけの簡素な作りとなっており、まさに急ごしらえでとりあえず造ったという印象が強い。

四稜郭内に続く道には石畳が敷かれている

 稜堡の高さはそれほどなく、見た目にもただ土を盛っただけに見えるが、傾斜は結構きつく、敵から攻撃を受けながら上るのはとても困難に見える。

 五稜郭の防衛のために造られたとは書かれているものの、実際に土が盛られている場所からは木々に阻まれて五稜郭が見えない。稜角を少し離れて、駐車場の入り口まで歩いて行くと遠方に五稜郭タワーが見える。ということは、五稜郭方面からは四稜郭は木々に隠れて見えないところに造っていたということだが、看板の説明を読むと四稜郭も開戦当初から攻撃されていたらしいので位置はバレていた。

駐車場と園内の境目から五稜郭方面。五稜郭タワーが見える
五稜郭タワーを拡大

志苔館跡

 四稜郭が1869年に急ごしらえとはいえ造られたものだということを踏まえて、志苔館跡しのりたてあとの写真も見て頂こうと思う。志苔館は、14世紀以降に和人の北海道進出が本格化する中で造られた城塞のなかの一つとされている。

 東北では城塞のことを「たて」と呼ぶ。もともと箱館と呼称されていたのも、15世紀に河野政道が箱型の城をこのあたりに築いていたためという説が有力である。明治2年に新政府によって箱館から函館という表記に改められたが、なぜ函の文字が採用されたかについてはさらなる調査が必要だ。

 そのような和人の館が12あったため総称して道南十二館と呼び、志苔館もそのうちの一つに数えられる。1457年にコシャマインの戦いが勃発すると、12のうち10まで館が落城したという。

塹壕も掘られている
土塁の隙間から海を望む
館があったとされる場所

 海がきれいに見える高台に位置しており、海から攻めてくる敵があればこれを即座に確認することができる、まさに防衛のための場所に造られている。注目すべきは土塁の築き方が四稜郭や五稜郭とまったく同じだということだ。違いといえば急ごしらえで造った四稜郭には土塁の外に塹壕がないが、五稜郭には堀、志苔館には塹壕が造られているといったことくらいで、これは建設にかけた手間の違いということだろうが、15世紀にできたものと19世紀にできたものと、土塁の積み方に変化がないのはなぜなのかという疑問は残る。もちろんこれが一つの完成された方法だからだということなのだろうが、武器も戦法も異なるであろう中でどうして同じような土塁を造るのか。

 このあたりは宇賀の昆布という昆布が取れる良港であり、志苔館跡も潮風に乗って昆布の香りが漂ってくる。

汐首岬

 志苔館跡を見たあとは足を伸ばして汐首岬まで行ってきた。ここは大間との距離が17.5kmで、北海道と本州の距離がもっとも短い地点として知られている。海は澄んでおり、風は強く冷たかったが下北半島が良く見えた。


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