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日本の歴史を考え直す その8 力士と埴輪の関係

 相撲の発祥の地は、出雲だと言われている。出雲大社の中に野見宿禰のみのすくね神社というのがあり、この野見宿禰が相撲の祖とされているのである。

 『日本書紀』には次のような話が載っている。

 大和国に当麻蹶速たいまのけはやという大変力の強い男がおり、時の垂仁天皇が「誰かあいつと戦ってみろ」と述べ、出雲から野見宿禰が召喚され、当麻蹶速と相撲を取って勝った。

 また、垂仁天皇32年7月6日、垂仁天皇の2番目の妃である日葉酢媛命ひばすひめのみことが亡くなった。当時は殉死の慣習があり、貴人が亡くなるとその家臣たちも後を追って死ぬことが常態化していたが、これに心を痛めていた垂仁天皇は家臣らにどうやってやめさせるか尋ねた。野見宿禰は「人間の代わりとなるものをつくって、墳墓の周りに立てましょう」と提案した。これが埴輪の始まりとされ、野見宿禰は土師臣はじのおみの姓を下賜された。また「垂仁」とは後代になって淡海三船おうみのみふねによってつけられた漢風諡号であるが、「仁を垂れる」はこの殉死の廃止の逸話に基づくという。垂仁天皇の名は『日本書紀』では活目入彦五十狭茅天皇いくめいりびこいさちのすめらみこと活目天皇いくめのすめらみこと活目尊いくめのみことなどと記載される。

 「宿禰すくね」は武人や行政官を示す称号の一つ。古代の氏姓制度では、世襲される役職がかばね、その役職に就く一族を指して氏といった。氏はかならずしも血縁一族とは限らず、血縁のないものが氏の集団のなかに含まれることもあったという。天武13(684)年には八色やくさの姓が制定され、姓の上下関係が整理された。上から順に真人まひと朝臣あそみ宿禰すくね忌寸いみき道師どうしおみむらじ稲置いなきという。

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