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皇女アナスタシア伝説の終焉

消えた皇帝一家


ニコライ二世一家(1906年頃)
(左から)アナスタシア皇女(4女)アレクセイ皇太子(長男)、マリア皇女(3女)
アレクサンドラ皇后、ニコライ二世、タチアナ皇女(次女)、オリガ皇女(長女)
※ロシアでは、丈夫な子に育つことを願い幼い男子に女の子の格好をさせる風習があった。


ロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世とその家族、即ち妻、アレクサンドラ皇后、長女オリガ皇女、次女タチアナ皇女、三女マリア皇女、四女アナスタシア皇女、そして、長男アレクセイ皇太子…彼等はどのような運命を辿ったか…、其れは長年の謎に包まれていた。ボリシェビキ政権は、ツァーリ(皇帝)とその家族を処刑したにもかかわらず、その事実を長年伏せ、「ニコライは死んだ」と報じただけだった。では、皇后は?ツァーリの4人の娘達は?そして、まだ幼いツェサレーヴィチ(皇太子)は?
ボリシェビキは、「ニコライの妻と子供達は安全な場所に居る」と発表しただけだった。ただ…、彼等の姿は、何処にもない。彼等は何処へ行ったのだろうか?
見付かる筈はない。ニコライ二世とその家族は、裁判すら行われぬまま、1918年7月17日未明、ヤコフ・ユロフスキー率いるチェーカーの銃殺隊により、全員が射殺されていたのだから。
惨劇の舞台は、エカテリンブルク、ニコライ・イパチェフと謂う商人が所有していた館、通称「イパチェフ館」。

イパチェフ館

ここで、ロシア最後の皇帝、ニコライ二世一家がその生涯を終えたことは長年伏せられていた。
1920年代にはウラル革命博物館の支部となり、ニコライ二世一家が殺害された地下室も公開されていた時期もあったようだが、1970年、米ソ間の緊張緩和が進むと、外国人のスヴェルドロフスク(エカテリンブルクは、ソビエト連邦時代はこう呼ばれていた)訪問を禁止することが困難となり、裁判すらせずに皇帝一家を皆殺しにした残虐行為を外国に知られぬための証拠隠滅が急務になった。
よし、隠せないなら壊しちゃえばいいじゃない……!!!
と、謂うわけで、ボリス・エリツィン、後のロシア初代大統領当時はスヴェルドロフスクの党最高責任者の手によって取り壊され、ご丁寧にもその上をコンクリートで固めて更地にした。これで、証拠隠滅完了…!!
後年、エリツィンは、この行為を「残念ながら当時はこうするしかなかったのだ…」と、自伝にて弁解している。

遺体の行方

さて、惨殺されたロシアの皇帝一家は、予め用意されていたトラックに乗せられ、エカテリンブルクのコプチャク村まで運ばれた。当初の計画では、遺体を誰にも見つからない様にエカテリンブルクのさらに深い場所にある鉱山まで運び、其処で爆破、或いは焼いてしまって文字通り消し去る筈だった。
石油やケロシン、乾いた薪もきちんと用意した…が、折しも7/18午前4時。遺体を運ぶには時間が足りないかも…と考えた、ユロフスキーは、よし、埋めよう、と計画変更。
…が、永久凍土の土を舐めてはいけない。硬かった……。
一旦計画変更になり、計画の練り直しやら何やらで7/18、午後10時、遺体を街から遠い銅山に運んでいたら今度は遺体を乗せたトラックが沼に嵌る(…。)
殺害までは用意周到だったのに、なんだかグダグダになって来たぞ…。殺れば何とでもなるとでも思っていたのか。
更に、ここにきて従者たちもへばってきた…。ので、もういいや!ここに埋めよう…!と、謂うことになった……。
幅6×8フィート、僅か60センチメートル(2フィート)の深さの墓に、ニコライ二世、アレクサンドラ皇后、3人の皇女、そして、死まで皇帝一家に付き従った従者4人の遺体を放り込んだ。遺体には硫酸が浴びせられ、顔の判別がつかぬよう、顔は小銃の台尻で粉砕され、ご丁寧に酸化カルシウムで覆われた。更に、枕木でその上を覆う。
残る二名、皇女のうち一人と、皇太子の遺体は其処から15メートル離れた場所に改めて打ち捨てられた。この二人の遺体は焼かれ、更に鋤で粉砕された。其れでも、2007年に骨の破片が発見されることになる────。

遺体発見までの簡単な経緯

1991年7月18日に、ニコライ二世一家の遺体が発見されたと正式に発表されたが、実は、ニコライ二世達の遺体は二度掘り起こされている。
先ず、遺体を探し出したのは、地質学者アレクサンドル・ニコラエヴィチ・アヴドーニン博士。彼は、未だ存命だった、皇帝一家の銃殺部隊の兵士に話を聞き、そして、遺体を埋めた者の手記などをもとに遺体の場所を探し出した。其れが1979年のこと。アヴドーニン博士をはじめとする調査部隊は、その場所を掘り返して、ニコライ二世一家の遺体の一部を発掘することに成功したのである!
遺骨に混じって、硫酸を入れていた瓶の破片も発見された。
ただ、当局には秘密の捜査だった上に、専門家達は自らに危険が及ぶことを恐れて、誰もこの遺体の鑑定を引き受けようとはしなかった。1980年6月、彼等は発掘した場所を掘り返し、遺体の一部を元の場所に戻した。
これが、正式な「発見」の前に掘り返された経緯である。
そして1991年7月18日。世界に、ニコライ二世一家とその従者みられる9体の遺骨発見のニュースが駆け巡る。
そして遅れること16年、2007年には、発見されていなかった、皇太子と、皇女の内の1人とみられる遺体が発見されたと発表される。
イパチェフ館での惨劇から、実に90年経っていた────。

遺体のDNA鑑定と残りの遺体の発見

さて、発掘された遺体達。先ず確認しなければならないのは、「果たしてこの遺体達は本当にロシア最後の皇帝とその家族の物で間違いなかろうか?」と謂うことである。何分、イパチェフ館の惨劇から実に70年以上経っている。最早、その当事者はこの世に居ない。
赤軍は、隠蔽工作として、皇帝一家と同じ年齢、同じ家族構成の実は全く無関係の人たちを殺して埋めたという噂や、皇帝は実は斬首され、クレムリンの地下にホルマリン漬けでその首が保管されていると信じている人々もいた。
更に、遺体はアヴドーニン博士をはじめとする「民間の有志」による発掘であり政府による正式な発掘ではないのだ。更に、正式な発掘に先だって、専門家ではない素人共が闇雲に発掘した上、遺体の一部が弄り回されていたという信じられない出来事もあった。民間の有志による善意でそれが慎重を期したものであろうとも、遺体をすり替えた、データを消去、隠蔽、改竄しただなんて不届き者が出なかったとも謂い切れない。
ロシア連邦は正式な委員会を立ち上げ、遺体達の身許を厳密に精査することにした。
古い文献に基づく皇帝一家殺害の状況の再現、遺骨の骨相学的分析、歯の分析、遺体のDNAとロマノフ家の子孫のDNA遺伝子情報の比較分析等々あらゆる調査が行われた。
DNA鑑定に関しては、皇帝ニコライ二世については、最も近い血縁関係にある生存者のDNA鑑定が行われた。結果、アテネ在住のクセニア・シェレメチェワ伯爵夫人とイギリスのジェイムズ・カーネギー卿のDNAがニコライ二世のものとみられる遺骨のDNAと一致。
更に、ニコライ二世の実弟である故・ゲオルギー大公のDNA関係も行われた。此れも一致。
更に、ニコライ二世の頭蓋骨については、日本も関係している。皇太子時代に日本に訪れた際の、滋賀県大津で日本人巡査に切り付けられた「大津事件」。その際の刀傷についての検証されたが、これは骨の欠損により確認できず。更に、博物館に保管されていた血染めの手ぬぐいも鑑定したがこれも血液型の確認のみにとどまった。
次に、アレクサンドラ皇后。彼女は、ドイツのヘッセン・ダルムシュタット家から嫁いできたが、イギリスのヴィクトリア女王の血縁だ。そして、故エリザベス二世女王陛下の王配、故エディンバラ公フィリップ殿下の祖母、ヴィクトリア・アルベルタは、このアレクサンドラ皇后の姉にあたる。故に、フィリップ殿下のDNAサンプルを用いて、DNA鑑定が行われた。此れも一致。こう謂う所に、欧州王族の繋がりの浪漫を感じる。

アレクサンドラ皇后と姉達。
右からイレーネ(三番目の姉)、ヴィクトリア(一番上の姉・フィリップ殿下の祖母)
エリザヴェータ(二番目の姉)、アレクサンドラ。
エリザヴェータはロシア大公セルゲイ・アレクサンドロヴィチに嫁ぎ、非業の死を遂げている。そして、三人の皇女達は両親其々のDNAを用いての鑑定が行われ、更に頭蓋骨の鑑定も行われた。

そして、三人の皇女達も其々、両親のDNAと照らし合わされ、それぞれの頭蓋骨鑑定も実施された。
これらの鑑定はロシアだけでなく、ウクライナやアメリカ、カナダ、イギリス、フランス、ドイツ、日本など各国200人以上の専門家の協力で進められ「皇帝と皇后、其れにオリガ、タチアナ、アナスタシアの皇女の遺体であることを確認した」と発表されている。
そして、遅れて発見された皇太子アレクセイと、皇女マリアの遺体───と、謂うより遺体の一部。
これらもまた、アメリカでのDNA鑑定により、アレクセイとマリアの物であると確認される。「我々は今、家族全員を発見した」

ロマノフ僭称者と皇女アナスタシア伝説

自称ロマノフ家の遺児達、「我こそがロマノフの生き残りである!」と、名乗りを上げた所謂「ロマノフ僭称者」は実に230人以上いた。マリアの自称孫の中には「アレクセイ・アンジュ・ド・ブルボン=コンデ・ロマノフ=ドルゴルーキー王子」と、長げーよ。取り敢えずロシアとベルギーとフランスの有名どころの家名繋げただけだろ…と、突っ込みたくなる方もいらっしゃったが…
一番有名な「ロマノフ僭称者」であり、皇帝の遺産を巡っての裁判迄起こしたロマノフ僭称者は、自らをアナスタシアであると謂った、アンナ・アンダーソンだ。
耳の形、筆跡、外反母趾など、アナスタシア皇女と酷似しているところもあったが、ロシア語が喋れない(…。)、但しアナスタシアが苦手だったはずのドイツ語が話せる、肝心なところで記憶があやふやになる、抑々顔が全く違う、そもそも、最初は「私は(次女)タチアナ」と謂っていた等々の相違もあったが、何故かアナスタシアの身近な人でなければ知りえないこと(例えば、母アレクサンドラ皇后の兄、エルンスト・ルートヴィヒを英語風に「アーニー叔父様」と呼んでいたなど)の知識があり、アナスタシアと認めるロマノフ関係者や、アナスタシアと認めないロマノフ関係者とで真っ二つに割れての騒ぎになった。(因みに、ニコライ二世の母、マリア皇太后は亡くなるまで決してアンナ・アンダーソンに逢おうとしなかった)。
結局裁判では「アナスタシア本人と断定不能」として、アンナ・アンダーソンの訴えは却下されている。
結論としては、アナスタシア皇女の遺骨が発見され本人確認をされたことにより、アンナ・アンダーソンは、アナスタシア皇女と謂うことはあり得ないと謂うことになる。
アンナ・アンダーソンの件は兎も角として、たった17歳の笑顔が似合う愛らしく明るい少女が、余りにも残虐で惨い最期を迎えた……。
その事実を受け容れたくない、認めたくない、と謂う大衆の願いが「アナスタシア伝説」を生み出したのではないだろうか。

アナスタシア皇女。明るい悪戯娘だったという。


アナスタシア、と謂う名前は「復活・再生」と謂う意味合いがあると聞く。
17歳の少女が、虐殺される最中に、心ある兵士に救い出され、生き延び、ロシア国境を越え東欧から西欧迄逃げ延びた。そんな、「アナスタシア伝説」を信じたがる人々は一定数居たし、信じてはいなくとも、そうであってほしいと願う人も居たと思う。
其れが、「アナスタシア伝説」を下地にした、映画や小説、ドラマの原点だったのではなかろうか。

アンナ・アンダーソンは、彼女が病気になった際に切除した腸の一部のDNA鑑定により、ポーランド人工女、フランツェスカ・シャンツコウスカであった可能性が極めて高い、という結果が出たと謂うことを追記する。

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