20210411_鯉のぼりの差

スマホを見ながら街を歩く。常に情報の海に溺れている。いつでもインターネットを泳いでいる。

飲水と夕飯を買いに、数分歩いてスーパーに行ったら変な食べ物を見つけた。

あく巻。なんだこれはと思って調べてみると、

あくまき(灰汁巻き)とは、鹿児島県、宮崎県、熊本県人吉・球磨地方など南九州で主に端午の節句に作られる季節の和菓子である。もち米を灰汁(あく)で炊くことで独特の風味と食感を持つ。(Wikipediaより引用)

どうやら、郷土菓子らしい。もう端午の節句の時期かと思って、スマホから顔を上げると街のあちこちで鯉のぼりが泳いでいた。気付かなかった。発見の喜びと同時に衝撃を受けた。俺は物心ついてから、大きな「鯉のぼり」を見たことがなかった。記憶にあるのはおもちゃの小っちゃい奴だけ。
東京からはこんな景色すら失われていたことに気付く。憲法25条には「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とある。文化的ってなんだろうと思って調べてみると、文化とは「芸術を核にして広がりを持つ概念」らしい。東京からは失われた鯉のぼりを見て、「文化的」というのはこういうことなのかもしれないなと思った。

鯉のぼりなんてものは、極論を言ってしまえば全く無駄なものだ。でも、鯉のぼりは子供の健やかな成長を願う「文化」であり、芸術でもある。今までどうして見たことがなかったんだろう。ずっとスマホを見続けていたから?
人が集まり過ぎると、文化は死ぬ。東京に居た頃は全く気が付かなかったが、人が本来持つべき余裕が無くなると、真っ先に失われていくのは文化なのかもしれない。少なくとも、鯉のぼりは効率化の波に飲まれて消えていったのだと思う。

鹿児島にきて常に思うのは人柄の良さと時間の遅さだ。東京に居た頃は常に物事が動いていて、それが当たり前だと思っていた。食堂の店員は険しい顔でオーダーを取って、無機質に料理を運んでくる。効率化されたルーチン。
その一方で、鹿児島ではガラガラの店内で、ニコニコのおばちゃんが話しかけてくる。なんだろう、この違いは。

やっぱ鯉のぼりの差かな。

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