20210617_引用と教養

俺はエモい描写が好きだ。エモいっていう言葉もなんだか陳腐で、趣深いと言うか、情緒的と言うか、物語の構造から魅了されるような、そんな描写が好きだ。それは物語の冒頭で出てきた何気ない台詞やアイテムを終盤でまた拾ったり、他の作品の引用であったり、もしくは経験していないのにそこにある心象風景であったり、デジャヴであったり。このプロセスと感情の根源には「過去」がある気がする。自分か誰かが為した何かを想起する、その行為が何よりも心をうつのだ。

平安貴族は和歌を詠むときに、色んな技法を使って「いとあはれ」とか言っていた訳だが、その中でも本歌取はマジであはれだと思う。これは現代的な作品では、オマージュとかパロディとか(あるいはパクリ)いう名前で取り入れられていて、最近のアニメでもかなり見られる技法だ。特に渋い引用元を選んでいたりすると痺れてしまう。

こういうときに常につきまとうのは、引用に気付けなかった場合その作品の価値は下がるのかということだ。結論から言って、下がると思う。少なくとも自身の中では。
当然作品を見る上で引用を気付けないことは多い。引用元を知っていても気付けないこともある。でも知らないと絶対に気付けない。それはなんだか寂しいし、もったいないし、悔しいと俺は思う。だから古典の履修は必要で、教養として知っておくべきなんだ。というか「教養」とは俺にとって、元ネタを知るためにあるべきものだと思う。故きを温めて新しきを知るために。

ということで、少女☆歌劇レヴュースタァライト観終わった。面白かった~~~~~。物語の構造がフラクタルというか、劇の内容が本編であったというか、そしてそれを更に超越してくるアニメだった。

白夜極光がリリースされた。触ってみた感じ、まだストーリーが全く面白くないんだけど、ゲームは新鮮でちょっと楽しい。でもゲーム性は薄いかも。


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