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牙虎の里

 実物のサーベルタイガーを初めて見た。僕はじっと見つめるが、サーベルタイガーは実験室内のスペースで寝転がったまま天井を見つめている。さながら突然下界に呼び出された神様みたいな佇まいで、実験室も、僕も、研究員の誰も見ていない。後ろの研究員がそっと耳打ちする。

「君はヒラミさんの息子だから特例ね。まずこのベヘモス、記録では存在してないし」口調は恩着せがましい。僕がお父さんに誰それの態度が良かったと伝えるようなタイプに見えるのだろうか。「ニュース見たでしょ? マンモスの復活が一件目で、最後。なにせリアルどもがやかましくてね」

「名前、ベヘモスっていうんですか」あまり話に付き合いたくなくて、僕は話題を変える。研究員は頷いた。

「旧約聖書から取ったんだ。このベヘモスは沼に浸かった状態で発見された。普通ならバクテリアや微生物のせいで分解されてるけど、このケースだと沼自体が氷河に飲み込まれた。幸いにも氷結破損ならウチのラボで再生させられる」研究員はちょっと言葉を置いて、続けた。「それにあのベヘモス――」

 縦に揺すぶられて僕たちは転んだ。地下十五階なのに、縦揺れ地震が起きたようだ。警報アラームが鳴り出して視界が真っ赤になるけれど、ベヘモスは相変わらず上を見ている。

「主任! 息子さんを連れてシェルターへ! リアル・ネイチャーです! 奴ら、上から無人機を貫通させて――」音ががなって、すぐに途切れる。研究員が僕の腕を掴んだが、天井が爆発した拍子にまた転んだ。僕はまばたきもできないまま、まだ瓦礫が降り注いでいないスペースへと後ずさる。シェルターまでは二十歩ほどだけど、もう一メートル近い瓦礫が積もっている。

 ベヘモスは悠然と寝転んでいる。自然とサーベルタイガーのところに瓦礫は降らない。ゴミも落ちない。高い天井に開いた孔からはドリルが突き出ていたが、やがてごてごてした格好の男たちがロープ伝いに降りてくる。ベヘモスはあくびした。

 それから、跳躍した。

 何をしたのかわからないくらい早かった。天井から地上まで八メートルはあるのに、ベヘモスは男の下半身を食いちぎると、部屋の隅に放り投げる。更に上から二人、三人と降りて銃を構えるが、ベヘモスは着地しなに瓦礫をくわえていて、ブーメランの要領で投げた。猛スピードで飛び立つ塊は一人を直撃して、その人は血の煙に消える。もうひとりいたが、ベヘモスが吠えると、慌てて上へ戻っていく。

 へたりこむ僕と研究員にベヘモスが近づいてくる。半ば緊張が抜けた体で立ち上がると、ベヘモスは音もなく研究員をなぎ倒した。また転んだ彼の首をベヘモスが分厚い牙で貫き、首を動かしてふっ飛ばした。

 僕は悲鳴もあげられなかった。ベヘモスは研究員だったものを噛んだが、放り投げた。

「やかましいだけあって不味いな。ピーチクパーチク鳥のようにうるさい猿だった。食うならやはり君だな」ベヘモスは僕を見た。

「君って喋れるの?」

「君の父親が私を復活させる際、頭にマシンを埋め込んだ。DNAだけでなく、私の肉眼で見た世界をあれこれ聴取したいという肚だよ。だが、私はそれを望まない。こんな世界に生まれたくなかった。あの吹き溜まりで凍っているほうがマシだった。これから君の父を噛み殺す積もりだ。私を彼の所へ連れて行け」

「…………ハイわかりましたって、素直に連れて行くと思う?」

「しないなら君を食おう。まだ少年だ。子どもの体は柔らかい。小腹も空いた」サーベルタイガーが牙を剥いた。「あるいは、向こうから君を求めてやってくるかもしれん。肉親であることは、匂いが教えてくれる」

 瞬間的に僕は景色を見た。研究所の外から始まり、一年前の旅行で見た塩湖、大型バスで乗り込んだ山林、砂漠の中のオアシス。最後に帰ってきたのは家で、お母さんは座布団に座って縫い物をしていた。学校の文化祭で作ったエプロンがほつれてしまって、塗ってくれた時だ。

 これは走馬灯だ。それを見ている時はこのサーベルタイガーと同じように遠い所を見ていたのかもしれない。そのベヘモスは僕を胡乱げに見回す。もし僕が行けばお父さんが犠牲になる。あるいは僕が死ぬ。そうなったら、お母さんはどうなるだろう。僕ら二人ともいなくなったら、お母さんは誰のエプロンを縫うのだろう?

「取引をしよう」

「命乞いにしては強気だな。君の知能などたかが知れているし、君がいなくとも私は君の父を捕まえられる」

「僕はお前の故郷を知っている。ここから三万キロも離れたところだ。お父さんは科学者で、ここの人たちは馬鹿じゃない。お前が僕を人質にしても返り討ちにあうか、罠にハメられて氷漬けだ」

「……」

「僕には、これがある」懐からIDパスを取り出す。この研究所にはこれで入ったけど、このIDは、国際空港でも使える。「僕には専用の無人ジェットがある。近くの空港まで五百キロ。居場所はGPSでお父さんに筒抜けだけど、このIDがあれば、お前は空を飛べる」

【続く】
 

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