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16(6(6(6( ⑤

「でね、その男の人の名前は『繁』っていうらしいってことまで分かったんだけど」
「繁は図書館の話と関係あらへんのやろ」
「うん」
「だったら今言わんでもええやん」キジュはキッチンに出、揃いのグラスに丁度六分ずつ牛乳をあけて持ってきた。
「賞味期限明日だったから」
「おおきに…氷入れたん」
「入れるでしょ」キジュは一度に飲み干した後の脂のまとわりつく白い氷を口に含むと、頬の肉の褶曲するのが見え―おそらく表面をねぶり取っているのだろう―やがて奥歯の音を立て始めた。

 部屋にはthe engyの"She makes me wonder"がかかっていた。二年前の夏、心斎橋のライブハウスで聞いてから、和栗の密かなお気に入りだった。そのライブハウスがつぶれたとのネットニュースが、先週あった。キジュはそれについては何も言わず、ただスピーカーから流れる音楽に耳を傾けた。最も遠いティーグランドに立ったトーナメントリーダーが、ドーバー海峡の塩辛い風に絡んだ髪をかき分け、無神経なスノッブたちの控えめな歓声の向こうに、かのアルバトロスの翼が切る風の音を手繰り寄せるように。
「いい曲だね」キジュは瞑っていた目を開け、言った。
「うん」すぐに次の曲がかかった。"When I Walk Around"…一度、たまたま観ていたシブヤノオトではじめて彼らの顔を見た。ヴォーカルは、大学生のころから今も塾講師をしているらしい。たしか、多恵子や繁と―そしてもちろんキジュや和栗とも―同じ大学の軽音サークル出身らしい。もしかしたら一年ぐらいは同じキャンパスに通っていたことになるだろうか。pixelを起したキジュは、しかしなんとなくその発光する画面をテーブルに伏せた。

「御室の桜の話、まだした方がいいと思う?」
「俺はかまへんけど、でも」
「そうだよね。オッケー、分かった」キジュは立ち上がると、すでに空になっていた彼のグラスまで取って、二つ並べたそれを目の高さまで掲げると、眼科の検査でもするように両の目に白く濁った冷たい屈折をひとつずつあてがい、それにLEDのシーリングライトの光を透かしてみせた。
「どうしよ、すごいよこれ」
「あほ」頭を振り部屋中をあちこち眺めた後、グラスを下ろしたキジュの瞳、睫毛にはほんの小さな水の滴がいくつか留まっていた。

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