見出し画像

9/15 孫引き

 その名にふさわしい秋の雷(あきのらい)――つまり稲妻が教員室から望む林を刹那青く照らしたのち夕闇に、吸われていた。空が暗いのは日の落ちるの早くなったためもあるが雲はどす黒く、元々休みにあたっている人が多い金曜日の夕方まで残って採点をしていた数学の先生らに囲まれ、時折無駄口をたたきながら、私は啄木の評伝を読んでいた。道楽ではなく、むろん必要に迫られてのことだった。大学の講義―あれもたしか秋口の雨の宵ではなかったか?―で、教授が自身の師が金田一京助に習っていたころの話を孫引きで私に聞かせてくれたことを思い出した。次に私が教室でこの話をしたら、それは玄孫引きにでもなるのか。まさかこれをこそ物語りとでもいおうというのか。
 見慣れたあたりから少し外れたページを開くとまったく辿ったこともない複雑な系統図が載っていて、かろうじて知っている雑誌や派閥の名を頼りにどうにか現代まで下りて来る。川辺の平石をひっくり返してみたときのような心地がして、つま先の濡れる錯覚がする。

 家に帰って梨の実を剥いてみた。一度盛大にしくじってそれ以来店で見かけても手が伸びなくなった林檎に代って、似姿を借りるように籠に入れたのは鄙びた藤壺のようと貧しい連想はかろうじてあえかだとしても、ただ何を言おう梨の実の膚は青(あを)いのだから、やはり拙い。ただまたうまく剥けないのがいやで冷室の奥にしまってあったのをやっと取り出した。
 梨の実は林檎よりも水けが多い。知ってはいたことだが、それは風の音にさやかという語の古里をみるように、刃を皮に入れてはじめてその意味が知れる。母指の柔らかな膚が押えたその皮の下を水面をかすめる魚の鰭のように滑っていく。青い皮のぽたりと落ちる音―身はほとんどついていない―は、まだ生きもののそれである。私はそれで、そのぽたりをいう音を聞いたそのときに、抽斗の中に置いてきた歌人もこうして、私(わたくし)という者のひとりのために、梨の実を剥いたことがあったろうかと考えてしまった。
 ざるにひとやま、というわけにはいかない。わびしいひとり住いである。古里の秋――それは違った意味合においてどちらも豊かとはいえない。孔だらけの胸を吹く風は痛いほど冷たかったろう。しゃくしゃくと実を食む病葉のように黄味がかった歯よ。

 尾崎翠の詩を知ったのはじつは他の歌い手を通してのことで、だから私のこれも孫引きということになる。実感を実観とせず、直感を直観ともせず、ただその白兵戦において孫引きでない愛と生活にぶっつかっていった歌人の昏さを、たしかに私は今旧き時代のそれと美くしがっている。むろん、もはや由来も知らぬ何某の孫引きでしか愛を識ることのできない私らにはできないことだ。「孫引きの愛」をしか語ることの許されていない私らは、目に見えぬはずの秋―名を知るまで人はその悲しげな夕のざわめきをどのようにとらえていたろう?―の風の音の名までも知っている。これは不幸なことだろうか?
 それをありの実ではなく今なしの実としておくのは、母や古里というものを知らないで無邪気にあこがれる聞かん坊の逆らいのようではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?