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緑の少女⑤

 生活にはどこまでもバイトが付きまとっている。アパートから歩いてすぐのコンビニでほとんど来ない客を待ちながら、あくびはもう隠そうともしなくなった。新人の頃自賠責保険の手続きのしかたを教わったのに今じゃもう覚えてもいない。くっつけた左右のかかとを上下させふくらはぎの筋肉にいじめるトレーニングのような癖は、ふとすると落ちてくる瞼を押し上げるのにも少しは役立った。終電まで10分と少し。それなりの忙しさなら退屈も紛れるし今日は一時でシフトも上がるからと白い壁に掛かった時計の針ばかり追っていた。朝が来るまでに済ませなくちゃいけないことはそれなりにあって、新人のチョウさんはバッグヤードと店内を何回も往復していた。足音や独り言がいやな感じに大きくて、でも文句を言うほどではない。三十代半ばでこの店に入ってきた彼女のことを僕はよく知らないし、別に知らなくても構わないと思った。
 大切にしたいことも深く知りたいことも好きになりたいこともこの生活には少なくて、だからといって無理に増やしたいとも思わないし、世界にたいするそういう態度にとくに引け目も感じない。けれど、そんな寂しい思想を樹紗にはとても伝えられない。どれも本当のことだった。両手を後ろで組んだ僕は、ふとすると際限なく続いてゆく考えごとを適当なところで打ちきると、息を吐きながら大きく伸びをし、一つの呼吸で自分が生まれ変わるイメージを抱いたまま空調の吐くリサイクルされた空気を胸に取り込んだ。
 会社員が何人か続けて入ってきた。自動ドアが開くのに合わせて聞き取り荒れたメロディの頭の部分が何度も繰り返し流れ、いらっしゃいませを一度で済ませた。向かいのスーパーはもう閉まっているので客はわざわざこっちまで交差点を渡ってきて安くもない弁当を買って行くしかない。国道の暗がりへ消えてゆくその人たちの顔を想像してみる。一日の疲れはどれほどのものだったのだろう、終電で家に帰ってきて、あと何時間後にまた会社に出なきゃいけないのだろう。今の僕にも分かりそうなのは彼らのはてしない眠気ぐらいだった。
 顔なじみのフリーターがスウェット姿で奥に消えた。もう交代の時間だ。また一人。いらっしゃいませ。灰色のスーツにしわは一つもなく、きびきびとした歩き方と短い脚にはっとした。繭さんだった。昔はしていなかったメガネのために気付くのが一瞬遅れた。そういえば、彼女の家がどこにあるかなんて聞いたこともなかった。当たり前だ、彼女が卒業してから何年にもなる。いつの間にか叩き始めたつま先に横を向くと、横では怪訝な顔をしたチョウさんがカートンの補充を始めていた。繭さんは麦茶のパックと小さな醤油瓶とナプキンを手に僕の目の前に立ち、商品を台に置くと鞄の中の財布を探し始める。ありがとうございますと口の中で唱えると茶色い紙袋の上からビニールの袋を重ねる。受け取ろうと伸ばした冷たい指先が触れて思わず顔をあげた。間近で見る彼女は目が赤く腫れていた。
「あ、」間抜けな声を出した繭さんはその続きが思い当たらなかったようで、決まり悪そうにつり銭を受け取るとそのまま出ていってしまった。僕は慌ててバックヤードへ戻る。スマートフォンをいじっていたスウェットにごめんと、携帯だけポケットに突っ込んで店を飛び出した。カメラが追いかけてきてくれたら安い映画のワンシーンにでもなるなとくだらないことを考えていたら、繭さんはすぐそこで赤信号に捕まっていた。車も通らない短い横断歩道を律儀に待っていた。
「あ、あの」振り向いた彼女の右手にはさっきのレジ袋、僕は何となく視線を逸らした。
「石見君、だっけ」
「はい。じゃなくて、さっきはごめんなさい、その」
「何で謝るの。ていうか元々そんなに絡みないでしょ」カウンター越しに見たあの表情はもうそこにはなく、太く茶色く描かれた眉はよく見るとほとんどメイクだった。
「家、近いんですか」
「そうよ、岡田分かるでしょ、六年生やってた。あいつたちよく私の家で飲んでたじゃない。馬鹿みたいにさ」
「あの岡田さんですよね、そうなんだ」
「まあ、そっか。あいつイカツかったもんね」
「さすがにないですよ。繭さんたちの代替わりがあってから、僕もサークルやめちゃいましたから」
「そっか、あの時は私が誘ったんだっけ」
「覚えてないんですか!明治通りのわっしょいで」
「いや覚えすぎじゃない?何年前よ」
「ですよね」
「ああ、ごめん。…まだ音楽やってるの」
「いつの話ですか、俺もう二十三ですよ」
「だよね」
「真面目に院生やってます、教職取りながら。つまんないでしょう」へえと言ったきり、彼女は退屈そうな顔を隠そうともしなかった。
「その、僕はこの角を左に真っ直ぐ行ったところで」
「あのコンビニは長いの?」
「いや、一人暮らしを始めてからなので」
「こんなに近所なのに一度も会わなかったなんてね」
「そうですね」
「うん。じゃあ、また」
「ちょっと」歩き出そうとする先輩を僕の声と青の点滅が阻んだ。小さなため息が唇の間から洩れる。繭さんにも同棲している恋人がいるらしいと学部時代の友人から聞いたが、それにしてはお茶のパックも醤油も割高な小さいサイズのものだった。二回目の青信号がすぐにやってくる。
「繭さん」
「…何?」
「いや、あの。そうだ俺、彼女とまだ続いてるんですよ。ずっとこのままだろうなって、最近思います」喉が渇いて何度かつかえた。
「樹紗ちゃんだっけ?よかったじゃない、お幸せにね」
「はい」
「じゃあね、おやすみ」彼女は僕の返事を待たずに、今度は本当に行ってしまった。
「おやすみなさい」じっとりと滲む汗を背に感じながら、すり寄ってくる停滞の予感を振り切るように、僕は夜のぬるい空気を胸一杯に吸い込んだ。

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