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双影 一

 波打際までせり出した崖の風穴を、手伝いに抜けた先が月の濱であった。鹽の路が弓なりを掻いて夜の低みを結んだ。水面に宿った影がすぐに傾いだ。
 波は砕けてあぶくが黒く砂を磨いた。濡れた砂がやがてつぶだった塵のような光を取り戻して、めいめい空へ返した。その絶えまない繰返しが、原初の時を思わせるほどのひたむきさであった。
 二人は濡らした足を駆けだした。路面に転ばした雪玉のように、足裏に纏いつく砂粒をむしろ快く蹴上げながら、嬌声もまた砕ける波の音に飲まれた。
「誰もいないわ!」雛子が、ずり落ちた肩をかきあわせて言った。
「本当!みんな忘れてしまったのかしら、この浜のこと」塗ってきたばかりの爪先に触れるそれが海藻でなく何かの紙のようで、うんざりしながらつまみあげるとそれは煙草でなく花火の殻だった。
「晩いからだわ」
「満ち潮のときには、あの穴も塞がると言っていたものね」
「ええ」莉佐は、探った隠しに触れるものがないことにさっと血の気の引く思いがしたが、すぐにそれは車に置いてきたことを思い出した。夜半の浜辺で落とし物をしては、ついに見つけられそうもない。用心がかえって一時の倉皇を招いたのだった。
「思ったよりも汚いのね」案山子のように両の手を上げた雛子が、その片方に掴んだ何かの袋とおぼしきそれだった。彼女はそれを勢いに任せて高く放り投げた。底に砂を含んだそれは風の無い中空の弛緩を裂くように確かな軌道を残し、それが知れたのは彗星の尾のごと噴き出したしぶきのためであった。
 莉佐は頬に張り付いた泥を指で拭うと、濡れ痕のない少し高みに上がり、傍の流木に腰を下ろした。薄い布を通して肌に触れる冷たさに、それが湿っていることを知った。いやな感じだった。徒労と言葉を添えるのさえ億劫になる不快は、木地に糖衣のごと張り付いた砂の掌にふれるざらつきにも催した。
「ここまで潮が来るみたい」芥を拾って歩く雛子に言いながら、彼女の立つ汀までの遠さにむしろ自分が驚いた。月とはこれほどに露骨な力を示すものであったかと、海に親しむことなく育ってきた莉佐だけに、純粋な驚きであった。
「後ろはまた崖になっているのね」雛子が低いところから、莉佐を見通すような合わぬ目で言った。莉佐は何ということは無しに振り返らないまま、今二人を庇うように抱きすくめるようにせり出した崖の高さに、その上に立っていたときには決して味わいもしなかった心安さを覚えた。それは、いわば落ちるべきところに落ち窪んだ者の覚える背徳にも通じる快さであって、だから、彼女の振り返らないのは草食獣のような敏さであった。
 芥拾いに飽きたらしい雛子は、それらを波の届かぬ浜の奥へ寄せると、莉佐に火を求めた。
「焼けやしないわ」
「いいの。一度やってみたかったのよ」
「だめだわ、本当に燃えて仕舞ったらどうするの」
「別にいいじゃない、打ち捨てられたものよ」莉佐は仕方なしにマッチを渡した。雛子は立ったまま何度か擦ったが、浜の風に湿って、なかなか火は点かなかった。かりに小さな火種が生まれたとして、濡れそぼった芥々がそっくり灰になるまで燃え尽きるはずもない。雛子はそれを知っていてか、むやみにマッチを折り続け、やがて足元に散らばったそれらを砂に隠した。

 唇を離し睫毛を重ねると、雛子はそれがまだ慣れずにくすぐったいらしく暗い笑いが洩れた。莉佐は束になった塩っぽい髪を梳かしながら、口の端にへばりついたびんの毛を小指に払いのけた。その耳の形に親しみが湧いた。
背後の崖の上を時折車が通って行った。浜に下りて来たはじめは夜半に絶えてその数までを数えようとしていたが、今はそう数えようとしていたことしか覚えていない。なぜ数えようとしたのか思い出そうとしたがかなわず、つまりこの時にそっくりすべて忘れてしまったことになった。珍しく、彼女はこの時記憶というものの死ぬその間際に立ち会ったのだった。しかし、これもとうぜん後から振り返ればのことである。流れに掌の器に掬いそこねた指環がその刹那こそすぐそこにあってもそれがもはや無限遠の彼方にあるのと同じことである。莉佐は雛子に向かって語り始めた。
「かすめ飛行でしょう?私知ってるわ」雛子の思いがけない返事だった。重ねていた手の熱さがすでに溶け合っていることを知った。
「え?」莉佐は引きはがす錯覚にその手をのけると、
「話したことがあった?」
「ええ、それももうたいそう昔に」雛子は笑った。莉佐は木の肌を撫ぜ、神前に忘れて来た礼をしに振り向くように、
「たいそう昔って」と近みに落ちかかった雛子の長い髪をいとおしんだ。
 痺れた舌の先でその黒目を圧すと、冷たい声を上げるのは彼と同じだった。若木のように緊張した背の筋をもてあそびながらなおもかすかに粘り気を帯びてくるその涕にあらぬことを思う。これもどこか孫引きの愛撫の仕方ではあった。どこで知ったのかはとうに忘れてしまって、それを自らのものとしてその下品をむしろあてにしているところさえある。しかし、何か物を含んだ後にはよほど気をつけるようにはしていた。一度、辛い物の後だったか、省吾は畳を蹴抜くほど悶え、暴れたことがあった。歯を磨いて口の中を清潔にすればいいのかというとそうでもない。それは食物の臭気に薄荷のより強い匂いを重ねているだけに過ぎないのだから、だからこうするとき莉佐はつねに空腹を感じていた。
 膨れ上がったものを抑える術もなく、その野蛮さにむしろ自ら戦き、雨粒が源泉に還るように、おかされる者として粟立つ肌を撫でる。昂じて、雛子は傍に座らせたまま自らは立ちあがった。向かい合って、固く閉じられたままの膝の上に片足を乗せた。
 ふいに、莉佐は今度は自らの目がきかなくなるような錯覚に襲われた。雛子とは違って両の目が暗い。初めてのことだった。長く留守にされた家の窓のように、縁から黒くしみが広がった。思わずのけぞった足が鋭いものを踏んだ。

「まだ痛むの?」履物の踵を伸ばしながら、雛子が上目を遣った。それに気を起すのを、汚いというよりは礼を失すると古色めいた思いにつかれた莉佐は、そのいたたまれなさを隠すように、つま先を蹴上げて雛子の胸にかるく触れた。雛子はいやがることもく、むしろ彼女に甘えかかるように胸をもたせ、莉佐の足を取って押し当てた。懐に足を抱いて温めるなど、今のようにたわむれているのでないならば、あやういほどの無私である。莉佐は、力萎えた足を雛子に持たせたまま、彼女の低い頭越しにしばらく海を眺めていた。雛子もまた、抱えた足に自分の耳を押し当てると、波の音を聞く一枚貝のように、しばらく目を閉じて動かなかった。貧しい体躯やそのみじめな恰好を、彫像に現すならばきっとそれは西洋のそれではなるまい。
 莉佐は、今も痛む足裏の傷を、そのものよりもよほど忌わしく思った。許しを得た憎みがむしろ傷を広げるのではないかと危ぶまれたが、すぐに自らそうしたいのだと気づいてからは思いに任せるように、傷をつけた硝子の欠片をきつく握りしめた。
 彼女を傷つけたのは忘却である。莉佐はそう断案を下した。誰かが忘れて置いて行ったものの成れの果てが血染めの足にほかなるまい。
波の音に厚みが出始めた。再び潮は満ち始めるらしい、莉佐は腰を上げようとしたが、雛子は拒んだ。途端、莉佐は言いようのない嫌悪を感じた。

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