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緑の少女⑫

 樹紗は今日珍しく日が暮れる前に家に帰ってきた。買い物はもう僕が済ませていたのに、手にビニール袋を提げていた。
「白くまとパピコどっちがいい?」後ろの注釈に挟んでいた指がぬけて、ぱらぱらとページをめくりながら白くまと答えた。
「啓介いつもだよね。好きなの?」樹紗は暑苦しそうなジャケットをハンガーに掛け、台所のシンクで手洗いの音がしつこいほど長かった。
「だって結局パピコも半分くれるから」
「え?」
「なんでもない」少しだけ開いていた窓から冷たい風が吹き込み、湿った匂いに気づいたときには部屋の中は薄暗くなっていた。どす黒い雲の塊が今にも落ちて来そうで、突然、奥の空が青白く砕けた。
 豪雨。慌てて窓を開け、一組しかないサンダルを片足だけひっかけベランダに飛び出る。僕が奥のハンガーを抱えると後ろの樹紗は靴下をもぎりとって部屋の中に放り込む。横殴りの雨粒に肩が濡れた。先に中に入った彼女のワイシャツが右側だけ透けた。
「ねえ、お風呂炊いていい?風邪ひいちゃう」樹紗は、時々こうやってどうでもいいことにいちいち確認をとって僕にまじめに答えを求める。癖だと分かっていたからそれだけ気に障った。
「なんでもいいよ。電気代も光熱費も君が払ってくれてるんだから、好きにしたらいいのに」服を畳もうと座布団に座った僕が発した一言に樹紗が声を上げた。
「なにその言い方。とげとげしてる。かっこわるい。子供みたい」ケンカの時は絶対に目を合わせようとしないのも彼女の癖だった。振り返った僕は半ば腰を上げひだのないスカートの裾に触れる。見上げるかたちになって笑いかけても、それは彼女の目には入らない。サンダルの揃った玄関の方へ顔を向けたまま樹紗は言った。
「私さ、何のためにここまでぼろぼろになって働いてるわけ?啓介と一緒のこの暮らしを守りたいだけなのに、なんでそうやって白けちゃうようなこと言うの?」たまらなくなって立ち上がると樹紗は居間から出ていった。風呂場の扉が乱暴に閉まった。こんなときどうしていたっけと少しだけ扉を開けると、吹きかける洗剤の量もスポンジをこすりつける回数もそれを流すシャワーの音もめちゃくちゃで、沸き立つ湯気と水の流れる音に混じって台所から炊飯器の音が鳴った。栓をして足を洗うと、樹紗は僕に一瞥をくれ、無理に横をすりぬけ居間に戻ろうとする。狭い部屋の中でそんなことをする彼女のことを、僕は軽蔑したくなった。自分もなんとなく石鹸で手を洗って、おかずはなににしようかと冷蔵庫を開けたとき、鈍い音とうめき声が聞こえた。慌てて戻ると樹紗がつま先をつかんでうずくまっている。段差に足をぶつけたのだろう。背中はこれ以上ないほどに丸まって、さっきまであんなに怒っていた肩は急に小さくなったように見える。かける言葉が見当たらずにしばらくそのままでいると、今度は嗚咽が漏れはじめた。
「泣いてるの?」
「違う」さえぎるようなその返事は彼女がどうにかして守ろうとしたプライドで、それもやがてこらえきれずしゃくりあげるようになった。思う存分泣いた後で、樹紗は少しずつ、吐き出すようにして話し始めた。
「ごめんね、ごめん。ああ、情けないな。私ね、今幸せなの。本当だよ。こんな時に、って思うかもしれないけど、本当。ねえ、分かるでしょう。あのね、初めはおままごとみたいだったじゃない、この部屋でのことも、でも、でもそれが気づけばそれがちゃんと今みたいに生活みたいになってて、啓介だってそう思うでしょう?トイレットペーパーもワイドハイターも切らさなくなった。でもね、私、私時々怖くなる時があるの。ほら、この部屋は西日がよく入るでしょう、だから、それで、そうやって毎日夕陽が沈むのを見るたびに、まあ、残業ばっかりで毎日は嘘だけど…それでも、すこしずつ、自分の未来がすり減っていくような気がするの。でもね、でも私それでもいいやって。なんて言えばいいんだろう、啓介となら人生ダメにしてもいいや、って思えるの。私は。ダメって言い方したら駄目だね。何だろう。でもとにかく、へんな意味じゃないよ…ねえ、でも貴方は違う。そうでしょう。分かるよこんなに長い間一緒にいるんだもん。貴方はきっともっと遠いところを見ていて、しかもそれは前を向いたものじゃなくてどこか遠くの昔のこと、そこからまだ離れられないで、動けないでいるんでしょう。わかってる、私を大切にしてくれていることもぜんぶぜんぶわかってる、ありがとう。でも、詳しいことは分からないけど…ねえ啓介、私たちもういろんなところを過ぎてきたんだよ。いくつもいくつも季節をやり過ごしてこられたんだよ、うまくやってこられたんだよ。ねえ、そうでしょう?」そのあとはもう言葉にならなかった。すぐにやむと思っていたのに雨足は強くなるばかりで、雨樋の水は溢れて時折ばしゃりと落ちた。僕らを守ってきたこの方舟は、洪水にやられて沈んでしまったようだった。
 轟音が部屋を揺らした。這いずり回る雷は紫の残光を残しては消え、また思いついたように稲妻を落とす。肩を震わせ押しつぶされそうになっている樹紗を、僕は後ろから抱いた。それしかできなかった。だから、長い間そうしていた。テーブルの上の白くまとパピコが少しずつ溶けてゆく。どこかでサイレンが鳴っている。降りしきる雨は、安直にいえば彼女の涙に例えられたかもしれないけれど、それでもたしかにふと訪れてしまうこんな悲しさから僕らを守ってくれてもいたのだ。僕は彼女お小さな頭を撫で、顔を覗き込んだ。暗がりに目を凝らすと彼女のメイクは崩れてくしゃくしゃになっていた。鼻は赤く目の周りが腫れていて、ひどい顔だと思っていたら、彼女は今度は声を上げて笑い始めた。
「ねえ、啓介。なんか情けない顔してるよ、どうしたの?」人のこと言えないよとつぶやく僕を無視して彼女はまだ身体を揺らしている。その睫毛に涙が留まっていた。
「ねえ、痛い」気づけば、自分でも驚くほどきつく彼女を抱いていた。
 そうしてしばらくすべてが落ち着くのを待っていた。そうしているうちに本当に夜がやってきて、僕らは何も見えなくなった。
「そろそろご飯にしよう」僕が立ち上がると樹紗はいきなり大きな声を上げた。
「Mステ!今週だけ録画してないのに!」彼女がリモコンを探し始めたので僕は居間の電気をつけようとスイッチを押した。部屋は暗いままだ。不審に思ってカチカチといじっている間に樹紗は手探りでリモコンを見つけて電源ボタンを連打した。テレビの画面も暗いまま。
「へ?」と首を傾げる樹紗を見てはっとした僕はベランダに飛び出た。雨はさっきよりもだいぶ弱まったが、夜も八時なのに町に明かりがない。
「停電だ」遠くの高層ビル群は明るいまま夜空に浮かび、誘導灯も赤いから、さっきの雷でこの一帯だけ駄目になったんだろうと樹紗を振り返ると、彼女は床に伸びていた。
「ああMステ」わざとらしく声を上げクッションを殴り始めた。
「しょうがないよ、停電なんだから」
「そのまま放送されちゃうのかなあ」
「とりあえずお風呂入れば?電気つかないけど」
「うん、でもMステ…」重い足取りで洗剤臭い風呂場に向かう樹紗の背中を、さっきとは全く違う心持ちに見た。
 僕がお湯を浴びて戻ると、樹紗は昨日の残りのミネストローネを火にかけていた。電気が止まる前にお米を炊いておいてよかったと思った。
「ちょっとこれ見ておいて」樹紗は僕におたまを渡し自分のタンスを物色し始めると、しばらくして小ぶりのグラスを持って僕に見せてきた。中には水の代わりに甘やかな蝋が詰まっていて、表面には桃色の花びらがちりばめられている。乳色のそれはコンロの火に反射して濡れているかのようにてらてらと光った。
「これ使おうよ、今までもったいなくてずっと仕舞ったままだったの」そう聞いて、僕は、それがもう何年も前、初めて彼女と一緒に過ごした春にあげたキャンドルだということを思い出した。
「冷蔵庫の中のもの食べちゃったほうがいいかもね」
「そっか、そうだね。停電だもの!いやだなあ太っちゃう」そう言いながら樹紗は素早く冷蔵庫の中を物色し始める。結局食卓には余り物のおかずが所狭しと並んだ。ジャンルも食べ合わせも無視された品々の真ん中にさっきのキャンドルが鎮座した。かぼちゃの煮物はチンできないのでそのまま食べることにして、脂の白く固まった生姜焼きは一日ぐらい持つだろうと電源の切れた冷蔵庫の中に戻しておいた。白いご飯と赤いスープが湯気を立てて、キャンドルの火はゆらゆらと揺れている。溶けたオイルからバニラビーンズの濃い香りが漂ってきて、食べ物の匂いに混じって、僕らは示し合せたように苦笑いをした。
「あーあ、今週フジファブリックの初登場だったのになあ。啓介も好きだったでしょ」
「うん、そうそう。そっか、今週か」
「え、何!忘れてたの?」
「うん、まあ」野菜と豆が溶け出したスープをひとさじすすった。
「おいしい」小さくつぶやいた途端、世界はその言葉を待っていたかのように光が戻った。ビデオデッキも複合機も、そしてもちろん冷蔵庫も、部屋はいつものように運転音を立て始め、日常はあっけなく僕らの手元に返された。存在感をなくしたキャンドルはさっきよりもしょぼく見えて、嬉しそうに目を細める樹紗の顔はため息が出るほど美しかった。

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