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波穂子⑨

 「初めて食べるわ、これ」母は一口齧ったどら焼きを番茶を注いだマグカップと一緒に盆に載せ、卓袱台の傍に膝をついた。
「港月堂だって。聞いたことある?」
「ないなあ」
「そう」一口目に舌を焦がし、ああそうだったとそのお茶の熱さを懐かしがった。
「でも、気をつけて行ってきなさいよ」
「うん」波穂子は、いつも一人でいるときのように氷を入れたりはせず、ふうふうと息を吹きかけては少しずつお茶を啜った。ふと、免許証はどこにやったろうかと不安になり半ば腰を浮かしたが、財布の中以外に入れておいた覚えもないので大丈夫だろうとまたどら焼きに手を伸ばした。向こうで見るのと同じワイドショーでは、記録的な冷夏と長雨のために葉物野菜は高騰するだろうとのことだった。
「なんか、毎年野菜高くなってない?」
「何よ、知った風に」母はそこで一度言葉を切ったものの、波穂子の答えのないのに今更気がついたのか「東京も同じね」と分かっていたかのように付け足し、はじめて見せる切ない顔をした。自分の発した言葉の意味を噛みしめるうちに、彼女のうちには母としての一種のくらい誇らしさが兆したようにも見えた。
「それで、明日帰るのね。今日はどこまで行くの?」
「どうしようかな。でも雨だしな」
「そんな無理して行くことないのに」今度いつ来られるか分からないし、そんな冷淡な言葉は吐かない代わりに、波穂子は黙って残りのどら焼きを口に放り込んだ。

 一年が過ぎてもう貼る必要のない若葉マークをそれでも護符の代わりにつけておこうかとしばらく迷い、結局虚栄心が勝ってそのまま運転席に乗り込んだ。
「明日は何時?」
「分からない」
「ホテルは取ったの?」
「うん」
「気をつけてね」
「はい」ガレージの砂利を踏む音が、母を一人残した家の庭にやけに高く響いた。

 ひとまずあのビーチの駐車場に停めた波穂子は、さてどうしようかと首をひねった。思わずポケットに手を突っ込んだところで携帯のないことに気がつき、すぐにまたエンジンをかけると国道沿いのマクドナルドまで車を走らせた。
「よし、」コーヒーを一口啜り駐車場にもWi-Fiの入っていることを確かめると、震える指で「伊東 観光」と打ち込み、結果が表示されるや否や慌てて画面を伏せた。それが、何か自分にたいする冒涜であるかのような気がしたからだ。

 波穂子は店に出入りする人たちの様子を眺めながら、時間をかけてコーヒーを飲み切ると、やや日の傾き始めた空の下を海岸線に沿って走り始めた。旅行客にもよく知られた海岸道路は、その実文字通りの動脈としてこの一帯の住民になくてはならないルートであって、当然朝夕はひどく混雑もした。ただ道そのものについていえば、高低差こそあれつねに助手席のピラーに分かたれた海を横目にひたすら南下する比喩ではなく本当に半島の海岸線をなぞる道路であって、途中セミナーハウスのある川奈のあたりで一度丘に上がるものの、何やらいかがわしいミュージアムたちの剥げた看板を愉しくやり過ごしているうちに再び視界の左が果てしない青に開けるのだ。概して伊豆急行の線路と並び南下する135号と鉄道とが分かれるのが桜並木で有名な河津駅の辺りで、ちょうどそこまで下りてきた波穂子はハンドルを右へ切り、今度は右手に川を遡る格好になった。

 波穂子はあのとき嘘をついていた。本当は今日泊る宿さえ決まっていなかった。しかし、その寄る辺なさが今の波穂子には心地よかった。私はひとりなのだ。私を止めてくれる人は何処にもいないのだ。信号待ちの度にバッグから羽織りを出そうかとハンドルを握る手をさすりながら、どこか都合よく旅館でもありはしないかと、とうに飽き始めた運転にあちこちと目を配りながら緩やかな上りの道を走らせた。

 道の両側に廂の長い家々が肩を寄せるように並ぶ一帯を抜け、かつてここも温泉場であったのではないかと興味をひかれながら、ぬるい風がばたばたと車を追ってくるのに気がついた。波穂子はなんとなしに一度ワイパーをかけると、扇形に開けた視界の奥に横たわるのは夏の盛りを過ぎた沈んだ色合いの山々だった。しばらく車を走らせると、しかしそのなだらかな稜線は少しずつ道の左右に開け、やがてそれが畑のすぐ奥に配されるほど近く迫ってくるとみると、木立から立ち上る薄い霧は湯煙のように風にたなびき、それがまるで二輪駆動の自動車を深く自らの懐へと誘うようだった。

 右手にシェルのスタンドを過ぎ、ふとメーターに目をやるが針はほとんど「F」に重なったままだ。先ほどまでは見通しの良かったのが少しずつカーブが出始めたなとアクセルを緩めたとき、標識に記された「湯ヶ野温泉」という文字に目が留まった。
 ハンドルから身を乗り出すように左右に目を配りながら、狭い路次を進みそれらしき駐車場に頭から入れる。曲がりくねった石段を殆ど駆けるように降りると、ナナカマドの木に隠されるように古い四阿が建っていた。波穂子は足元に目をやり、腰掛に荷を下ろした。波穂子は、湯に足を浸すと処々青黴の生えている湯舟の甘くふやけた縁を指で押してみた。向こう岸の奥に控える暗い木立から、嘆きのような鳥の鳴き声が響いてきた。

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