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波穂子⑧

 少し熱があるみたいだ。藍はうなじに手をあて、その掌にくらべていくらか冷たいのに快さを覚えた。体温計はどこかにあるはずだったが、部屋中をひっくり返してまで探す元気はない。藍はそれを体調のすぐれない何よりの証拠だということにして、ソファから滑り降りると壁伝いに台所へ行き製氷室から氷をひとつくすねた。
(なんてもろいんだろう、僕は)いつか、藍の姉がちょうど今の彼と同じような状況にあったときがあって、彼女はまさにこのリビングで、その頃はまだ「2号」のいなかったテーブルに真新しいシーバスリーガルの瓶を開けどこかで教わって来たのを試すような幼さでむやみにロックグラスを呷るのを、当時まだ高校生だった藍は何も言えずにただ見守っているしかなかった。しかし、何も言えないながら彼は、その時が初めてといってもいいほど珍しく、目の前でぼたぼたと涙を流す自分の姉を軽蔑してしまいたくなった。僕はきっとこうはなるまい、そう思った。姉が極端にアルコールに弱いことは知っていたし、その時の藍は、姉の痛みを分かち合えるほど、というよりもまったく、なにごとをも知らなかった。
「これから暑くなるけれど、シャワーだけで済ませずに毎晩きちんとお湯を張ろう。湯船は毎日洗ってあげるから」「今日はやらないでしまったいつものあのストレッチも、明日からはまた始めよう」「寝起きの早いうちに少し時間をとって、一緒に英会話の練習でもしよう」この時彼がどうしてこのような言葉をかけたのか――そこには、何の役にも立たないような反復以外に意味をもたない反復を「積み重ね」と名前を挿げ替えることで、その「積み重ね」のうちに今日と明日とをつなぐことそれ自体の喜びを取り戻してほしいというささやかながら切実な希いがあった。ただ、藍がこのような幼い提案に姉を微笑ませたとき、彼自身は、決して今しがた口にした事柄のうちに何かひとつ糸を通すような思想の欠片を見出していた訳ではなかった。驚くべきことに、彼は、じつに殆ど触覚に近いところで言葉を選び取り、人の吐く物分かりの良いセリフの代わりに、目の前の姉に差し出したのだった。
「ありがとうね、そうだね、藍くんの言う通りにしよう。よし、そうやって、まだおねえちゃんきっと時間がかかるけど、だけど、毎日毎日ねじを巻いて、日曜日は『安息日』にして、ね。だからお休みの日の夕飯は頼んだよ」藍は、姉の頬に薄く陰るえくぼをみながら、彼女のこれまで、そしてこれからひとりで巻いていかなければならないねじがなるだけ軽いものであることを希い、今まで意識もしてこなかった「反復」というものにはじめて「生活」という新しい名をあてることになった。藍は、姉の目を借りながら、はじめてまなかいに生活に向き合うことになったのだった。

 熱にうかされた藍が、誰もいない部屋で考えていたのは、そんな昔のことだった。カーテンのない広い窓から幕電のように白んだ都心の夜をうち眺め、今日の自分はうまくねじを巻けただろうかと考えた。物質的な生活だけではなくて、抗いようもなく打ち寄せる切なさの波に流されないだけのしたたかさとして。
(あの子はどうだろう)わが身に降りかかるあらゆる出来事――心の水面に次々に投げ込まれる石とそこから広がる波紋の模様をつぶさに眺めるが早いか、もやのあなたの湖にもそれを放ってみる、それが藍の癖になっていた。
(きっと波穂子さんは何ともないのだろう。彼女にとって僕はきっと留まり木みたいなもので、一時の雨を凌ぐための仮宿で…)しかし、彼はまだ、枯れないうちに手折られた花の色を、まだ何も知らないで甘い香りを放ち続ける鮮やかな花々をしてすぐに見限ることのできるほど乾いた少年ではなかった。折り取った茎の断面にだけ目を向けて、その手つきの乱暴さをさげすんではかない自尊心を守るような、そんな心の落としどころさえ知らなかった。藍はただ、もはや交わることのない波穂子との道の先に(自分ではなく)彼女を待ち受けるものは何だろうかと考えた。(いや、彼女はきっとそれすらも自分の手でつかんでいくのだろう。僕らは花ではないのだから)まさに今、波穂子が藍を捨て次へ進もうとしているように、これからもあちらこちらへと身を寄せながら、過ぎた途は時々の夜に甘い感傷としてのみ振り返り、それも次の朝には忘れてしまっているのだろう。藍は、せめてもの健気な反抗として、そんな波穂子の空しい生き方をどうか哀れんでやりたくなった。(そうしていつの日か波穂子さんは、どこか淋しい薄の原を風に吹かれてひとりで歩いている。そのとき彼女は眼を病んでいて、それでそのときになって初めてまた僕の名前を呼ぶのだろう。しかし、そんな日が来たとして、その時僕は彼女のすべてをゆるしてやれるだろうか…?)藍は、忘れかけていた額の熱さに気がつき、苦しい息をクッションに埋めた。藍は、このように夜毎あまりにイノセントな、殆ど叶う望みのない、嘘と言ってもよい希いを錠剤のごと寝水に飲み下し、そうして眠れないながらに目を閉じるのだった。(再会の日には、きっと脱皮した「2号」の話をしよう。その時僕はうまく笑えるだろうか…)

 「私たち、ちょっと近づきすぎたみたい」あの日の波穂子の言葉は、疾く薄雲のかかりはじめた空に待ち焦がれた雨粒のように、二人の間に初めてもたらされた決定的な言葉だったのに、意外にも藍はその台詞そのものに深く傷ついたわけではなかった。しばらく見ないうちにむくんだ顔と、むき出しのやや肥った白い腕が、むしろ重い意味のあるその言葉よりもよそよそしく彼をはねつけた。藍は、とっさに彼女のうちに醜さを見出したくなる自分を抑え、「でも、音信不通になるわけじゃないんでしょう?」と、半分は本音の混じった冗談を空しく揺らした。低く洩れる笑いの淋しい理由は考えもせずに、彼女の言葉の明かるい面だけに光を当て、その裏に透けて見える底なしの闇には目を向けようとしなかった。
「そうだよね、うん」「ちょっと胸やけしたんだね、きっと」「大丈夫、おれ、きっと人より鈍いところあるから。だからこれまで、波穂子さんのいろんな不満に気づいてあげられなかったんだね」「でも、おれの気持ちはどうやったって変わらないから、だから」ことごとく的を外れ力なく砂地に刺さった言葉の矢を一本ずつ引き抜きながら、やがてその矢じりがはじめから丸く削られていることに気がつく。それは、今まで藍が「優しさ」と信じて疑わなかったまごころの形だった。(引き抜くまでもなかったんだ)指を触れるだけで音もなく倒れるうつろな矢たち。それに比べて君の放った言葉の、今日という日をじっくりと待ち受けていた耳触りの良い別れの台詞は、僕のこの腕ではとうてい抱えきれそうになかった。足元に落としていつものように、その優しく明かるい面にだけ光を投げてみても、処々に空いた穴からどくどくとあふれ出す憎悪に似た血の冷たさが、藍の目から二人で見る世界の色合を奪っていく。

 ゼンマイ仕掛けの朝がまたやってくる。ふさぎこんだままの二号は今朝もヤドの頭しか見えない。藍は冷たいpixelから充電コードを引き抜き、LINEを起した。1時間41分の通話を最後に途切れたトークは、今日のクーポンや今日の天気や僕の既読を待っているわけではない文字の塊の下に押し出されてしまっていた。また一つ、通知はなしに僕宛のでない言葉が積みあが
る。

「おはよう」千尋からの返信。

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