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16(6(6(6( ⑫

 店を出ると、ずいぶんと暮れ泥んだ日のここに来たときには架線が分った中空の領分に居座り忌々しい熱線を吐いていたのが、いま多恵子とキジュ―二人の振り返り視線のぶつかるのは大丸デパートの壁に他ならないけれども―その彼方どこまでも遠い西方に落ちたようで、朱鷺色に燃える雲のちぎれちぎれにのみ日暮れを偲ばせるこの刻の空を、キジュは十年前にここを去ってからというもの長らく目にしてこなかった。むろん、久しいのはこの空だけではない。多恵子も和栗も大学も御所も北山も、すべては追憶を噛みしめるうちに思わぬえぐみのような思いさえ染みだし、キジュはつないだ手をそっと離すと、靴ひもを結ぶためにその場にしゃがんだ。多恵子は手持ち無沙汰なのか、あんなことがあったのにそこは構わないのかまだ浅いアーケードの灯りに消えていく三人の連れ合いたちをつくづくと眺めていた。すっぽん、伽耶、そして繁―まだあのジッポの涼しい音は、まるで速い瀬のふと頭を出した底石にかかる葦の葉のように多恵子の耳に残りそしてささめくのだった。と同時に、彼女は両肩に手をかける非常な重さを感じた。
「ごめん、おまたせ」
「ふん」
「暑いね」
「梅雨も明けたさかい」すぐ角の入口を下りずに、二人は高島屋まで連れ立って歩いた。途切れることのないタクシーの列の一台のドアが開き、先に中から出てきた中折れ帽の男に手を取られしなやかな足を下ろすは錆びた朱色のドレスを着たしゃなりの女だった。よくみると男と女の年はかなり離れている。ソフトの下にはみ出る髪のないのを見るに、まさかどこぞの老師というわけでもあるまい。出来過ぎだろう、と独り言ちたキジュは、「結局、川床はいかなかったね」と多恵子に言ってみた。
「なんや、あれからいっぺんも行かんと卒業したんかいな」一回生だったろうか、初めて過ごす夏は何もかも目に楽しく、用もない鴨川沿いを和栗を連れ出して歩いていたところ、ふと見上げた賑やかな店の外座敷―中年の男数人に囲まれて華やかな笑みを浮かべた多恵子は豊かな髪を珍しくひっつめ冷たく露わになった首筋は行燈の光に幽かな陰翳をまとい、どこの知り合いだろうかと疑るのも忘れたキジュは目に映る彼女をただを夢の中の一葉のように胸に焼き付けたのであった。
「そうよ。誘ってくれないんだもの」
「いややわあ、何遍も誘ったやないの。せやのにそのたんびにお金ないお金ないいうて。私が貸したげる、せっかくやさかい大学に居るうちに行こ言うてもよう納得しんと」
「ええ…そうだったっけ」
「けったいな人やわ」ひとしきり笑った後、多恵子はふと通りの奥に目を流し、「またおこしやす」とうやうやしく頭を下げた。
「ちょけんなや」口を突いて出た言葉にはっとして、目が合った二人のどちらからともなくまた笑いがこぼれるのであった。
 ドアがひっきりなしに開閉し人々が皆向こうへ吸い込まれていく。足元の網蓋からぬるい風が湧き上がるのは地下鉄の換気口なのだろう。また、と手を振り人波に消えていく彼女の背に、忘れるなかれ―リュックサック満載の本たちは多恵子の背に赤子のようにしがみついているのだった。本は、これからいくらばかりかも彼女のの懈怠の心を苦しめ、しかしそれでもなお彼女は本を返しに行かないのだろう。キジュにはそんなことを知っていた。落窪の都は日が暮れても昼の間蓄えられた熱を吹き払うだけの風は来ず、吹き溜まりになった瓦だらけの町の蒸すような夜に、キジュは懐かしく忌々しくそれを匂った。

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