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遅い昼食は議事堂を眺めて

    図書館附の食堂は昼のピークが遅い。アルファベットを冠した定食の提供時間が終わった頃合いを見計らって入ると、後に続くように透明な手提げにいそいそと十人ほどなだれてくるのを、まるで自らが呼び水でもあったかのように、忙しく立ち働く女の姿を眺めながら、勝手に申し訳なく思っていた。

    ところで、私のいう図書館附の食堂というのはこう書いただけではピンとくる人が多くはないかもしれないけれども、私に限って言えば案外縁は浅からぬもののようだ。小学生時分、夏休みはほぼ毎日パートに出かける母の車で市営の図書館に送ってもらうと、そこで夕方までひとり過ごすことになっていたのだが(ときには児童館や公園へ出向くこともあったが、自転車の足がなかったのと暑さのために結局入り浸ることになるのがオチだった)、その市営の図書館の奥まったところにも今私が薄いコーヒーを冷ましている「喫茶コーナー」に近い、というかほとんど趣を同じくする食堂があったものだ。もはやその頃に読んだ児童書の中身は一切忘れているけれども、日替りのスパゲッティのサンプル(といっても一食にラップを掛けただけのもの)とほのかに立ち上るソースの匂いに、運動嫌いとはいえまったく空腹でないときのほうが珍しい健やかな少年の腹はおおいに刺激され、しかしそんな少年が気ままに昼食に割けるほどの大金が青いアディダスの財布に入っているわけはなく、結局読みさしの本を放り出しては冷水機の水に辛うじて空腹を紛らわすのだった。

    この食堂について加えて言うと、そのメニューがまたおおいに魅力的である。ミレニアム少年の私がまさかデパート上の食堂などを行楽の目当てとしていたわけではないが、あたかも懐古趣味の映画から抜け出してきたかのように、メニューを彩るのはカレーライスやミートソーススパゲッティ、オムライス、海老フライやハンバーグの定食、ホットケーキやソフトクリームなどことごとくわれわれにとってもっとも親しい洋食の面々で、静謐で知的な図書館のそれとしては意外にもそばや焼魚が載ることはない。だから当然私も後からやってきた客らもそれらのうちから選んで幼心にフォークやスプーンを動かしているのだが、思うにこれもたんにメニューにないのではなく客の要望に応えていった結果として残ったのがこれらの健康的とはいいがたい洋食たちだったのではないか。

    アマゾンプライムビデオに「ロバート秋山の市民プール万歳」というのがあって、とりつかれたように繰り返し繰り返し見ていた時期があった。内容といえばその秋山が毎度毎度各地の市民プールを訪ねては水浴び程度に泳ぎ、泳ぐと腹が減るといっては近くの店で泳いで消費した倍以上のカロリーを摂るその繰り返しなのだが、今話題にしている図書館附の食堂のメニューはまさに秋山が好んで選びそうなそれらとよく似通っているのだ。 そういえば、何度か通った世田谷区のプール(馬好きの作家がよく散歩したという馬事公苑からほど遠からぬ所にある)にはその入口に遊園地のレストランよりも華やかなサンプルがずらりと並びこれから泳ごうという健康志向を粉々に打ち砕かんとしていたが、そこまで豪奢なものではなくとも、市民プールと図書館の食堂はそこで供されるのが「ごちそう」という意味でとてもほとんどそっくりなのはなぜか。いうまでもなくそれは図書館での仕事が字義通りの運動に他ならぬからである。それはほとんど競走といってよい。限られた時間の中で(まあ朝イチの開館早々に来ればいいのだが、調べ物などはしているうちにどんどんあれもこれもと欲張りだすのだからどうしたってきりはない)なるだけ多くの収穫を獲て帰りたいものの、焦っていては文章に目を通すだけで読んで理解したことにはならないという苦しい抑制の連続は思った以上に体力を消耗する。はじめに書いた昼時のピークの遅さもこれと考え合わせると宜なるかなといったところで、勤め人よりも少し遅い朝食を取って午前中に来た彼らが渉猟と省察に没頭するその集中力の限界が、ほとんどおやつの時間に空腹を訴えるのだろう。没頭という語は文字通り水に頭を浸すようなその辛い潜水の謂でもある。かりにも平日の休みを割いてまで館へ足を運ぶ人らはなにか一つ物事を深く究めようとはしているのであって、だからその知のプールサイドには勉めた自分を甘やかすようなごちそうがふさわしい。

    なぜ私はこうもこの食堂にこだわっているのか。はじめて国会図書館を訪れたのは大学の卒業論文を書くにあたって音楽雑誌を何年分も通覧する必要があったからで、その頃から通い詰めたこの食堂がどうしても気に入っているのか自分でも不思議でならなかったが、こう考えて来ると、世にこの図書館附の食堂ほど贅沢な空間がないからではないか?供される食事がそれほど上等なわけではない。学校給食に比べればまだよいが、所詮毛の生えた程度のものだ。看板を掲げて町中の店でたち行けるほどのものではない。会計を先に済ませるのも店の内装も、とくに情趣に満ちたものではありえない(し、それが求められてもいない)。平日の日中から図書館に入り浸ることができるのは、自分がかつてそうであったような締切に追われる学生や一部の好事家、それからふさわしい肩書をもった学者連といった図書館での調べ物というもはや時代錯誤に近い道楽に少しばかりの金と時間を割ける(あるいは割かざるをえない)いわば涙ぐましい酔狂たちにほかならず、学費を稼ぐのに必死だった頃には昼食に金をかけるなどは考えもしなかったのに、どうにか工夫をしてここに来るときだけは食堂に来るようにしていたのは、きっとここの一種放埒ともいうべき、来館者たちが閲覧室で見せていたそれまでのストイックな勉め方とは似ても似つかぬ解放の感を彼らとともに味わいたかったからだろう。芥子色のセーターを着た老紳士が電気の熱さにムラっ気のあるホットケーキを美しい三角形に切り分けては口に運ぶ。長身の麗女が軍艦のようなカツカレーに食らいついている。眼鏡を掛けた壮年がそのツルごと柔らかなスパゲッティをフォークに巻きつけている。隅では勤め上がりであろう婦人連がまかないを食べながら時々忙しそうな彼女のかわりに下げ膳などをしてやっている。厨房で孤軍奮闘するセカンドキャリアであろう翁の手さばきは意外なほどに華麗で老練そのものである。そして私は、それらほんのひと時目的を同じくして集った者らの憩い場それ以外ではありえない親密な店のその一角で、食後の腹を落ち着かせるためと自らに嘯きながらいつまでも席を立たないでいる。しだいに睡気の甘く立ち込めてくるのをもはや食後の習慣としてしか捉えておらず効き目のなくなったコーヒーの苦みに追い払うこともできず、プールサイドのひと時は、来たるべき潜水の冷たさを思ってはあたうかぎりそれを先へ先へと延ばすのだ。

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