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緑の少女①

 昼下がりの空を眺めるでもなくて、僕は帰りを急いでいた。薬局を出るときに、息を切らし駆け込んできた少年の肩が擦った。流れる雲が運ぶ雨の匂いに、今朝の天気予報のこと―梅雨入りを伝えるキャスターの顔を思い出す。彼女の名前はなんだっけ。
 買い物からの帰り、とくにまだそれほど暑くもないこの季節は寄り道が多い。指にくいこむレジ袋の重みはまたこれからの一週間をやりくりするためのもので、恥ずかしいけれどそこにたしかな喜びがあった。短い横断歩道を渡ると、青い垣根の向こうに僕の棲むアパートが見えてくる。古い建物の二階へ上がる階段は外壁に不釣り合いなほど新しくて、クリーム色のペンキはいつまでも乾いていないように見えてうかつに触れられない。少し猫背になりながら一段ずつそれを踏みしめる。切ったばかりの前髪がリズミカルに揺れて目線が一番上の段にぶつかったとき、僕は顔をあげて、背けて、赤くした。
 樹紗だ。ワンピースが好きで、四着しか持っていないのを順番に着回して、物干し竿にはいつもどれかが掛かっている、樹紗は僕のかわいい恋人だ。すみれ柄の麻地の裾が風に揺れて、柔軟剤の匂いは僕と同じだ。彼女は手を伸ばし軽い方の袋を僕からむしり取る。卵が入ってるから気を付けてという台詞をおまじないのように唱えると、猫のカバーのついた鍵をポケットに探し205の札の前で立ち止まった。ノブをひねりながら歪んだドアを引き、閉じてしまわないように爪先で押さえる。彼女は啓介の脇からするりと玄関へ抜け、丁寧にはきものを揃えてから部屋にあがる。ぼろくなってしまったその緑色のサンダルを、君はいつまで大事に履き続けるのだろう。
「緑色なんて、もっと似合う色あったでしょ」あの時樹紗は怒ったように笑った。今度誕生日に新しいのを買ってあげようかな。でも、それがプレゼントだなんて言ったらまた怒るんだろうな。僕も玄関にあがって、部屋の鍵は下駄箱の上の卵のようなカプセルの中に落とした。それも緑色をしていた。どっかで買ったおみやげだっけ、昔集めていた食玩だっけ、靴のかかとに指を引っかけたまま、その目が離せなかった。耳障りな音を立てる背後のドアに外光の角度がつくと、玄関の明るみはゆっくり細くなっていき、抜き取ったチラシを口にくわえたのとドアの閉まったのがちょうど同時だった。綺麗に揃ったサンダルも芸術的に散らばった僕のスニーカーも真っ暗の中に消えた。
 聞きなれた音楽のお笑い番組の再放送が始まって、僕も樹紗もそれを気に留めないでそれぞれのことをそれぞれにこなす。ほったらかしのプランターに咲いた正体不明の黄色い花。買いすぎ、と言いながらクックパッドに頼る樹紗の横のパクチーの束。CDショップの袋に入れたままいつまでも洗濯に出さない僕のバイト着。お休みは転がるような速さで夕方を迎えようとしていた。

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