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16(6(6(6( ⑦

 そのときはじめて多恵子の耳元に目がいった。かわいいイヤリングだなとだけ思っていたら、よく見るとそれは椿の形を模したものだったのだ。もう季節には遅いが、何か意味があるのだろうか。
「ええやろ」
「…うん」キジュは言いながら、喉のつかえによく似たもどかしさに苦しんだ。
「ほら、誰だっけ、あれ…」
「あれ?」
「そうだ!茉莉ちゃん」まり、ではなく、「まりぃ」と呼ぶのが習わしだった、たしか文学部のあの子は、決してピアス穴はあけない代わりに様々な色形のイヤリングを付け、仏蘭西語の教室で初めて顔を合わせた際、猫毛のびんをかき分けた耳朶に無数のスワロフスキーが光るのにぎょっとしたが、それも後で教えてもらったところによると、グラン・シャリオを模したものだったのをよく覚えていた。丁度この時期にはほんの小さなガラス箱の中に本物の金平糖を入れたリングをよく嵌めていて、会うたびにそれを揺らしながらキジュの許へ駆けよって来たものだった。キジュは、彼女の美しいノートを借りては息を漏らした。まりぃさんは、仏蘭西の他には額田王と国木田独歩が好きだと言っていた。
「なつかしいでしょ」
「せやねえ」多恵子はあまり記憶にないようだった。腕時計を文字盤をおしぼりで拭ったキジュは、「お腹減ったかも」と言ってみた。
「ケーキでも食べたら」うん、と言ってキジュは席を立ち、入口近くのショーケースに寄ると中腰の姿勢になった。髪が落ちかかり、それがリングを付けていない自分の耳にさらさらと触った。
「何にしたかあてたろ」
「何?」
「ベイクドチーズケーキ」
「しかなかったからね」すぐに出たそれは皿までよく冷たく、もう竹筒のようなそれの中でわしゃわしゃとかさばり始めた伝票の束にそら恐ろしさを感じながら、キジュは一口頬張った。
「おいし」
「私にもちょうだい」向こうへ皿を伸べると、多恵子はフォークの枝を下に向けすくうように下したのが、切れ端がほろりと崩れて彼女は難儀しながら欠片を口に運んだ。しかしその時、淡く塗ったルージュがクヴェールに付かないのはさすがというべきか、彼女は円くすぼめた唇の隙間―何よりも深い闇の奥へケーキを何度も何度も運ぶのだった。
「こうして何回も分けて食べるよってに、皆私のことよう食べるいわはるんやけどね。ほんまはそんなぎょうさん食べてへんの」
「ちっちゃい頃から練習してた?」そう訊くと、多恵子はやや遠い目をして言った。
「練習にはな、高野豆腐使うねん。あれが一番汁っ気吸いよるよってに、はじめはちいさく切ったんを箸でつまんで、唾がつかんように」唾のことを「つばき」と呼ぶ人に初めて会った。まさかこんな掛詞はないだろうかと考えてみたが、キジュには例は浮かばなかった。イヤリングを愛するまりぃさなら、「それはね、」と言ってあの頃のように教えてくれるだろうか。まりぃさんは、今どこで何をしているだろうか。

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