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ふた旅 3/3

湯ケ野

 ナナカマドの茂みを分けると、橋の向かいに福田家が見える。太鼓橋の下を流れる河津川は荒くしぶいている。足がすくんだ。けれど、かつて来たときがどうであったかはよく覚えていなかった。二丁の拳銃を構え目いっぱい伸ばしたうちの片方の肘を捻り片目をつむる。二人の声が遠退いていく。

    近景――冷たい流れをなめる黒坊主の岩は今ここからは五つばかり見える。あの時はどうだったか。溺れそうな岩の姿をみるにあれが常のこととは思えなかった。両岸には古い山城を思わせる護岸の塀、液体の状態変化を示す折れ線グラフのように二段になったうちのあそびに青く長草が敷かれている、草だけでなく若い低木までもが葉をつけている。目やすい野生の小庭はこの一帯の過ごしてきた穏やかな日の長さを偲ばせた。あれらはいつ大水に浸されるとも知らずに繁るに任せている。
    中景――左、つまり福田家のそばから指で拵えた画布の消失点に向かって延ばされた石畳の道とそれを覆う杉の森の厳かな影であり、漸く顔を出したものを既に林の裏に隠れようというのは西日――御付の従者のように薄い雲を纏ったままゆらりと階梯を下りていく今日の日である。対岸に両翼を開くのは岸を上がって車道を挟んだ先の低い丘、対岸の日に照らされ金色に染まる。
    遠景――杉林と低い丘の輪郭がだらだらと下りて重なるカンヴァスの中央、最奥に配されるのは連峰の尾にあたる小鍋の低山か。ふいにその名が知りたくなる。

    むろん、これらの一景を捕えようと筆を取る者などいない。筆を取る者がいなければ、景色は画とはなりえない。
    朴歯の音に軽く振り向く。おかみの笑みはあの日と変わらない、不確かな頭に確かにそう思われた。
「早いお着きで、お疲れでしょう」
「迷惑でなかったですか」
「いいえとんでもない、荷物はそれだけですか?」みたりともそれぞれ弓手に提げた鞄の顎を少し上げて見せる。
「お部屋の用意はしてございます、さあ」おかみは私たちの鍵をその手に温めるように握り、先に立って階段を上がる。和装なのでその身体の線が見えない。頑丈さをも痛ましさをも読み取ることができる。確かなのは、目の前の老女もまた、その身体にひと巡りの季節を重ねたということだった。
「今度は、二階の角のお部屋です、特別にしつらえたんで、ないですよ、こんな時勢ですから、たまたまお断りが入りまして、眺めはようございます」
「よかったね」
「やったね」床板のうぐいすを痛めながらぞろぞろと廊下を渡り、突き当たりの部屋に「思ひ出」の札が掛かっている。
「お布団はお夕食のあいだに敷いておきますから」目で返事を促される。
「はあ」
「お夕食は何時からにいたしましょう?」今度は私が同じ目を遣って二人に促す。
「少し休んで、先にお風呂も」
「そうだね」侑里が時刻を確かめる画面に、おかみは注意深く見入っている。
「他に困ったことがあれば内線で呼んでください、これからお食事の支度に入りますから、少しお待たせしますけれど」
「はあ」何か付け加えたかったのか、開きかけた口をまた閉じたおかみは、心もち深く頷いて部屋を出て行った。私は自分の喉の皮をつまんでみて、皺が刻まれてはいないかと二人にたわむれた。

「ひゃあ、くたびれましたな」尻もちをついた朱花が撃たれた人のように大手を広げて畳に倒れる。この夏にでも新しく入れたのか、青いい草の香が細かな屑とともに、傍に立つ私の顔を羽虫のようにちらちら掠める。自分の鞄を収めるため床の間のテレビをずらせた侑里は、「ねえみて!」と前髪を梳いた指で障子を開いた。
「ねえここ、去年の部屋にはなかったよね」
「ほんとだ、すごい、眺めはどう?」
「あれ、お風呂が見える、あれそうよね?」私は後ろから飛び乗るように侑里の肩を抱き広縁の外の硝子戸に頬を寄せる。
「よく見えない」硝子戸を半分ほど放ち隙間から生首を伸ばすと、宿の裏にあたる木立の隙間から、僅かながら岩風呂が覗かれた。雨は止んでいたが風呂に人の姿はない。普段は枝葉で隠されているべきものを庭師がしくじったのか、それもかなり身を乗り出さなければならなかったので、私の無邪気か。
 しきりに呼ぶ朱花を振り返ると硝子の厚みだけ歪んでいる。顔を引っ込め建付けの悪い戸を虫が入らぬようしまいまで閉めると、手渡された浴衣の首には「大」と印されている。
「「中」が一枚しかないのよ、私でいいでしょう?」朱花はそれを聞きたくて声を張っていた。
「ちょっと大きいんじゃない?おかみさんに持ってきてもらおうよ」服を脱いだ侑里が道成寺のように裸の肩に浴衣を引っ掛け、風を孕ませた裾を翻し部屋のうちを駆けまわる。私はのりのききすぎた自分の衣を折目から剥がし、要らぬ用心に膨れた鞄の中身を推してみた。
    荷を枕にしたまま眺める箱型のテレビの、台風の報せがしきりに涙にぼやけるようになった頃、侑里の足が黒い影に目の前を横切った。気に入って寛いでいた広縁に、卓袱台の上の硝子の灰皿を持ち出そうとするのを見て、手元の画面を起す。「もうすぐご飯よ」
「あれ、持ってきてくれるんじゃなかったっけ」「何言ってるの、覚えてないの」
「え?」私はLINEを開き、三人のグループから去年の旅行のアルバムを引っ張り出してきた。「ほら、こんなご馳走食べたじゃない、私たちだけの部屋に通されて」
「ああ…」
「ああって…朱花は?」
「トイレじゃない?」私は寝そべったまま身を伸ばし、厠の灯りが点っていないことを確かめると、そのまま侑里の座る籐椅子まで這っていき、硝子戸から身を乗り出した。
    おおい、おおい。見通す枝の合間に湯の波が名残りの日を溶かし、墨のごと縁どられた影の処々を侵した。
    私たちは、風が吹いてはじめて、それらがただ暮色にいち早く沈んだだけの草々であることを知るのだ。日が沈んだ後にはしばらく今度は月の下では虫の音がさやぐだろうが、その青い光も死んだ深い夜には、草々と私たちとそれらの寝息は溶け合い、おしなべてそれを人は抒情歌と呼ぶのだ。朱花の顔は出てこなかった。もう一度と、息を飲む。
    応えるような鳥の声だった。仰いだ夕空に乏しい星が私の目を盗んだ。飲んだ息がそのままこぼれた。何も急ぐことはない。気楽な旅だった。握りしめた木の桟の粗い木目の感じを、思い出したように膚に味わった。

「どう?涼しい?」
「うん」
「雨は」
「大丈夫、だと思う」縁側に掛けて闇に向いた朱花の、探るように這わせた手がビールの瓶に当たる。割れはしない。ただ、鈍く弾んだ畳にしみをつけた。
「ねえ、これを外の茂みに投げ捨てたらごまかせるかしら」庭に面した十畳あまりの部屋に通されたときには、夕食の用意はあらかた出来ていた。おかみひとりで仕込める量ではとうていなかったが、それぞれの料理の説明をして回り、猪鍋に火をつけ、食事中の用聞きに回ったのもすべておかみだった。朝や昼にだけ手伝いに来てもらう人らがあるのだろう。
「冷蔵庫から減ってるんだから意味ないじゃない」
「たしかに」朱花は握った瓶の首をそれでも持ちいいのかでたらめに空を切った。時折、雨だれを弾いた雫がきらめいて外の闇に飛び込んでいった。
「虫が入るわ」朱花は難儀しながら網戸を閉めると、夜風を迎えるように大の字に寝転んだ。
「行儀悪い」
「いいの、私たちだけなんだから」
「言いつけるよ」
「誰によ」むきになってみせた私は懐を探ったが、あらぬ骨のように固いブラジャーに触れただけだった。小さな金具の熱さにぞっとした。携帯は部屋に置いてきたのだろう。ぴんと揃って上を向いた朱花の足指の向こうから、鈴虫の音が聞こえていた。
「ねえ、あの話聞かせてよ」
「何あの話って」
「風船の話」
「え、ああ」ねだられるほどの話ではない。一度掬い損ねればそのまま底に沈んでしまう記憶には、水は濁っているから手を伸ばす気にもなれない。私はグラスの残りを干した。
「前ね、一人で公園のベンチに座ってたの」
「何か起こりそうね」
「起こりそう」
「茶化すならやめるわよ」
「ごめんごめん」
「続き聞かせて」
「それで、そういえばその日はよく晴れて暑い日だったんだけど、私の座ったベンチっていうのは噴水を挟んで広い遊歩道の両端にずらっとベンチが並んでいるうちの一つで、」
「代々木公園みたいなこと?」
「あ、そう、まさに代々木公園のあそこよ」
「どこ」
「え、だからさ、渋谷の方からNHKの脇通ってくると、橋渡った先の」
「まあいいよ別に関係ないから」
「気になるけど、まあいいや」
「それで、平日の昼間だっていうのもあって人は殆どいなかったんだけどね、一人の女の子が、五六歳かなあ、赤い風船を手に向かいのベンチの奥の林を歩いていたのね」
「ひとりでなんて変ね」
「ね」
「いや、荷物やらベビーカーやらが向かいのベンチに置いてあったから、お母さんはたぶん赤ちゃん連れてトイレにでも行っていたんだと思う」
「なるほどね」
「それで?」
「女の子、これ本当この感じで言うと嘘みたいなんだけど、足元に虫か何かを見つけてしゃがみこんだ拍子に、持っていた風船の紐を離しちゃったのよ」
「あらら」
「でね、これもやっぱり嘘みたいなんだけど、風船は頭上の木の枝に引っ掛かっちゃって、女の子は泣くでもなくかといって木をよじ登ってみるでもなく、まるで鳥の巣でも見つけたみたいにずっと風船の方を見上げてるの」
「ショックすぎたのかな」
「もちろん私は取りに行ってあげようとしたんだけど、かなり高いところに掛かっていた風船だったから取れるとしたら木をよじ登らなくちゃいけなさそうだった。その時私はスカートだったし、そもそもひと足目をかける枝が私の背丈より高いところにあったから、まあ諦めるしかなかった」
「かわいそうだわ」
「それでしばらくその女の子と一緒の顔して風船を眺めていたのだけど、すると時折風船の掛かっている枝の近くで葉がはじけるように散ったり梢が揺れたりするようになったの。はじめは風か鳥かと思っていたけどそうじゃない。よく目を凝らすと、石だった」

「ねえ、待って」侑里だった。遮られた私は、足を掛けられたように胸を冷やし、
「何?」
「私その話聞いたことある」
「うそ、」
「ほんとよ」
「前に話したかな」
「ねえ、」いつか近いうちに聞いたような、暗く澄んだ声を落とした。
「その話の続き、私が語り直してもいい?」
「えっ」
「もし間違っていたら、後で言ってくれていいから」
「いいけど…」侑里はせわしなげに何度かまばたきをすると、私をまねてかそうでなしか、半分ほどのコップを干して朱花に向き直った。

「そう、石だったの。それも明らかに風船を狙って投げつけられてる。驚いた「私」がその木の辺りを見回すと、一人の黒いジャンパーを着たおじさんが、さっきまで女の子が立っていた位置に立って次々に石を放っていたの」侑里がちらりと私に乞う目をする。軽く頷くとまた口を開く。
「それで、おじさんは女の子を木から遠いところでしゃがませて、手を頭に乗せて待たせているの。女の子は時折、惜しい、とか、危ない、だとか言って、おじさんは休まず石を投げ続けるの」
「そんなことしたら」
「そう。(そうだよね?」かれこれ二十個ぐらい投げたのかな、割と大きな音を立てて風船が割れて、ピザにまぶすドライトマトみたいなくしゃくしゃになった欠片がはらはら落ちてきたの。おじさんはそれには目もくれず女の子のもとへ向かうと、一言二言何かを言ってから去って行ってしまった。女の子は、おじさんがいなくなったのを確かめてから、びりびりになって元は風船だったなんてわからないような残骸を肩に掛けたバッグの中に仕舞った」
「女の子、その時どんな顔してた?」
「どうもしないよ、ただ、少なくとも悲しそうには見えなかった」ねえ、そうでしょう?侑里はそう言って湯の入っているポットに手を伸ばした。

 海月のように溶けだした頭が、遠く衣擦れの音を聞いていた。それがいつからなのかは分からない。眠りは浅瀬を渡る舟のように、ほんの足元まで迫った水底の砂に自ら走らせる影の色を知らない。
 冷めかけた飴を寄せ集めるように意識を綜合して、薄い布団から身を引きはがす。突然こみあげるものがあって、しばらくはげしく咽ると、それが今まで息を吸って吐いていたことを思い出させた。
 月は沈んでいた。深い夜だった。窓に近く寝床を取った朱花の放埓な足が時折伸びあがった。長く伸びたその爪が、縁を仕切る障子戸を掻くようでひやりとした。強くぶつけたら割れてしまうだろう。
    あやうさに脅かされる前に、もう一度早く眠りたい。そのために出た「ふた旅」であるはずだった。

    長い夕食のあと、しばらく休んだみたりは手拭と歯ブラシだけを持って湯殿へ下りた。おかみの言った通りに、渡り廊下の札を「使用中」裏返しておく。
    酔いは引いているはずだった。大丈夫だよね、と私が訊くと、腹いっぱいこのお湯を飲めば酔い覚ましになるよと、侑里が軽口を叩いた。下着さえつけていないこの身軽さが、男のようで愉しい。
    内湯の灯りが洩れるだけに、外の暗さに目が慣れない。侑里は、岩の縁に腰を下ろして瀬を踏むと、
「あつ」
「うそ」
「どれどれ」朱花は唸り声を上げながらしつこいほどゆっくりと身体を沈める。私は髪をまとめると手拭を放り高い岩の上に立った。かるく開いた股の間を、白い湯気をさらった冷たい風が流れる。すうと息を吸いこむと、鼻をつまみ大きく脚を開いて飛び込む。膚を叩く音が高く返し、泡を吐くさなかにくぐもった二人の笑い声を聞く。浮き上がった目をしばたきながら、熱く潤んだ視界に乏しい星と、ちょうど今灯った母屋の灯をひとつ捉えた。

 頭の底にせせらぎの音が流れていた。聞こえていないようでもあった。死期の迫った名人は、川音のせいで眠られないからと、対局の日を延ばさせたと、そんな取材記を読んだことがあった。彼にはきっと、せせらぎの奥に交じる、裏の杉林の鈴虫の音さえうとましいだろう。あるいは…。伸びかかった芽がふと萎びてしまう。代わりに思い出したのは、昼のことだった。

 あのとき、後ろから車が来ているように思って道の脇へよけたが、振り返ってみて何もないのを不思議に思った。しかし、もしそれがタイヤの音でなくて、ちょうど私たちの足元を流れていた湯の音であったとしたら。



    抜け殻にまだ温みが残っている。間の長い鳶の鳴き声に窓の外を見やる。澄んだ空は高く、杉林の彼方に黒い影がふらふらと回っている。乾いた口に催した唾は甘く、仕方なくそれを飲み下すと広縁へ出た。
    二人の裸だった。不自然に落とされた枝の隙間から、外湯が丸々覗かれた。思っていたよりも狭く、落ち葉が多い。
    二人は岩の上に寝そべって、あるいは私と同じように鳶を眺めていた。薄く延ばすように広がった白い乳房が二つずつ頭を背け合っている。しらじらしく広がったその胸の、浮き出た骨は小さなくぼみであるはずが、真新しい朝の日の下では青く病的な陰をしみのようにしたたらせていた。
 おおい、おおい。私は手を振った。袖がすとんと落ちて、腕の肉が白く日にさらされた。
「おねぼうねえ」
「そう?」振り返った暗い部屋に時計はかかっていない。
「何度か揺り起こしたのよ、でも気持ちよさそうに寝ているもんだから二人で出てきたの」
「待っててね、私も今行くから」
「ねえ!」二人の声が重なった。
「今日はどこ行こうかしら」
「どうしようね!」私は窓を開けたまま、まだ濡れた手拭を取って部屋を出た。
(完)


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