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緑の少女②

「ねえ、やっぱり友達がいい」言ってしまうと、イチイは形だけ申し訳なさそうに俯いたまま髪の毛の先をくるくると指に巻きつけた。
「え?」
「ごめんね」
「ええと、ごめん。だからどういうこと?」意味のない薄笑いはたぶん相当ひきつっている、いやそんなことよりも。
「私たち、友達に戻らない」
「…別れるってこと?」
「でも、石見君のこと嫌いなわけじゃないよ、これは本当。少しの間だったけど、たくさん優しくしてもらったから。だから好きなの。好きで、正直いうと、私だってもっと一緒にいたかった」
「じゃあなんで」彼女の望みはなんだろう。思い留まらせるためには何て言えばいい。ふやけた脳みそが最善手を導こうと回転する音が聞こえてきてそんな自分に驚く。
「んー何て言うんだろう…たぶん、石見君私といたら幸せになれない気がする。私、ちょっとおかしいの」
「おかしいって」
「すっごくはしょって言うね、こうやって時間割いてもらうのも申し訳ないから」
「うん」申し訳ないじゃなくて、めんどくさいだけだろ。
「誰かが言っていたの。『幸せであろうとする人間はもう幸せなのだ』って」彼女は本当はそこだけを言いたかったようで、昨晩から温めてきたはずの告白は本人も気づかないぐらいにその声色が違った。
「そしたら、私不幸なんだと思う。あのね、どうか引かないで聞いてほしいんだけど、私ちょっとその絶望ってものに憧れてるの」
「は?」
「不幸でいたいの、私。そうだよね、変だよね。ごめん。でも、そうしたら色々なことを省いていられるから。でも、こんな気持ちになるのって私だけだと思う。わかってるよ、だから私のために石見君を傷つけたくないの、こんな最低な私のために」とにかく何か返さなきゃいけなかった。
「俺は好きだよ。いきなりそんなこと言われたってわかんないし…俺そんなこと考えたことないから、イチイの言ってること理解できないけど…」
「うん、それはごめん」敗北宣言のような僕の告白を受け止めもせずに、彼女は黙り、かといって僕に何かを話す暇はくれなかった。日直がきちんと閉じて帰らなかったカーテンの隙間から日が差し、隣の机の角を真っ赤に焦がす。上の階を見回る教師のサンダルの音が聞こえた。


「…私ね、なんかそんなに長く生きていられない気がするの。病気にかかってるわけじゃなくて、いやもしかしたらそうかもしれないけど。とにかくもう嫌なの、うんざりなの。分からないでしょこういう感覚」
「わかんないよ、わかるわけないじゃん。なんだよ生きていられないって、何かあったの?」唾が飛んで、それが彼女のブレザーの方にひっついて、イチイは満足そうな表情を浮かべた。
「…わかったよ、友達に戻ろう」半ば強いられた優しい返事を返しながら、僕はこの絶望的な状況から自分を守るため必死に考えようとした。そうだ、高望みをしなければいい、元に戻るだけだから、友達からまたやり直せばいい、一生の別れなんかじゃない。傷口からあふれる血に綿を押し付けるように、もはやそうとしか考えが及ばないように、ちぎれたひもをテープで継ぎ合わせたものをまだ途切れなかった絆ということにしてそれにおそるおそる体重をかける。深呼吸をすると、こみ上げてきたしょっぱいものがそれでも少しずつ喉の奥へ下がっていくのが分かった。
「ありがとう、石見君って本当に優しいね」
「…ありがとう」
「私、石見君の彼女でいられてよかった。怖かったの。ずっと言い出せなくて…」
「怒るわけないじゃん。君が好きなのに」声が震えたのは涙のためじゃなくて、自分の健気さに胸がつまったからだ。
「うん…」
「これからだって、何でも相談して。俺でよければなんだって話聞くからさ」
「ありがとう」
「もう帰ろ!遅れちゃうよ」下校時刻のチャイムは、わかってるのに何度も何度も鳴って、僕らは駆けなくちゃいけなかった。延長下校が許可されているのは都大会の近いサッカー部とラグビー部だけだった。
 辛うじてまだ床の色の見分けられる廊下を左に折れ、掃除後の埃が舞い残る階段を降りた。イチイの指定鞄は姉からのお下がりで、校章のプリントがすこし剥げていた。
「駅まで送るよ」
「ううん、今日お母さんと帰るから…」
「そっか」
「うん、じゃあまたね」
「うん、また明日」
「そうだ。前言ってたバンド、やろうね。来年の文化祭」イチイは、楽しみそうな顔でいつかの口約束に色をつけて、返事は待たずに行ってしまった。
「うん、来年の文化祭…」そんなに綺麗に笑えるんだったら、まだ隣にいてくれてもよかったのに。

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