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緑の少女⑩

「お茶の水、上陸!」
「じょーりく」終業式がいくらかおして、電車を乗り継いで駅に着いた時には正午を軽く回っていた。
「我々ネット世代がこんなくそ暑い中遠出することありましたかね」
「どうせなら直接がいいって言ったのはどっちだよ、てかお前家帰ってもどうせゲームするだけだろ」
「それは浅香ね。てか今日テンション高くない?」
「お前だって」おそろしく高いギブソンの代わりを探すために昨日の晩調べた、今日はバンド計画の第一歩だった。イチイは来週に迫ったコンクールの練習に忙しくて、テスト明けからはあまり落ち着いて話す機会もない。星だって同じ部活なのに大丈夫なのだろうか。改札口をくぐると予報通りの快晴に頭がくらくらしそうだった。青い空に昇りきった太陽は今日も飽きずに熱線を吐き散らし、御茶ノ水橋の下で流れもしない藻色の堀の水には湯気が立ちそうだった。水面を見ていると道一本隔てたこちらにまで臭いが漂ってきそうで、視線を上へ投げると対岸には医科歯科大の真っ白なビルがそびえている。ひっきりなしに往来する轟音は、海にそそぐという神田川を跨いで僕の地元まで延びてゆくオレンジラインの中央線が起こすものだった。
「アイスくわね」
「まだ早いわ」
「店の中に食べ物持ち込んじゃだめだろ」
「お前が言い出したんだろ」日をよけるようにして廂の下を歩き始めた僕らは楽器街の学生の多さに驚いた。もちろん僕らもその中の二人なのだが、様々な色形の制服が気になって仕方ない。
「軽音部の女の子っていいよな」
「なんで皆ソフトケースなんやろ」
「推しのワッペンつけるためとか」
「それだわ!音楽を舐めてんな」
「そうそう、ああいうやつらが銀杏ボーイズをメシアみたいに信奉するんだろな。でも可愛いな」
「うるせえ、あ、あの子?確かに」中にはアタッシュケースに様々なステッカーを貼り付けて提げている人もいて、二人ともそれがエフェクターボードだとは知らなかった。街には比較的小さな店構えのものが多かったけれど、その中に、あの日大宮でイチイと訪れたグループの本店があった。
「ここよってく?」
「なに、なんか気になるん」
「別に」
「にやけんなや」このままだらだらと歩き続けても仕方ないし何より暑かったから目の前の店に飛び込んだ。自動ドアが開いた途端に吹きつける冷風に首筋の汗がすっと引いて、思わず漏れた二人の声が重なる。長い髪を後ろで束ねた店員の真っ青なエプロンは、アヴァンギャルド気取りの彼には似合っていない。カウンターの向こうでギターをいじっているのが店長だろうか。その人の視線がこちらへ向く前に隠れるようにして奥の一角へ入っていった。通路には所狭しと楽器が立てかけられていて、鞄が引っかかってしまわないかと胸の前で抱える。星は一本一本に興味を示し、はあ、とかほう、とか言っている。気になって聞くと「いや、俺も全く分からない」と真顔のまま言うので拍子抜けした。
「あの店員になめられそうじゃん。ただでさえ制服なんだから態度ぐらいでかくないと」
「はあ」星と一緒になって、読んでもわからないであろうブリッジの様式やネックの半径やらにかじりついていた。
三軒目の店員のしつこさから逃げるようにして隣の店に入ると、一階の突き当りに目立ちやすく掛かっていたのは黄色いレスポールだった。思わずため息が出て足が自然にそちらへ向く。目の前にしてみると、のっぺりな黄色にスチールのブリッジやガードが装われ、なめらかな曲線に思わず膝が震えた。
「藤くんのギターですよ。バンプ好きなんですか?」声にびっくりして振り返ると愛想のよさそうな店員がこちらへ笑いかけている。胸に「店長」とプレートがかかった、背が小さくて線の細い人だった。
「は、はい。でもまだ初心者なんで」憧れの人への親しすぎる呼び方に苛立ちを抑え答えると、店長はその言葉を待ち受けていたとばかりに語り始めた。
「初心者だからこそだよ!良いギアじゃないとモチベも上がらないしょ?それにやっぱりモノがしっかりしてないと運指とかストロークにも変なクセがついちゃうしね」話の内容よりも砕けた口調がちょっと気に入ってしまって、僕は今日初めて店内で足が止まった。
「ですよね。僕もできればTVイエローが欲しいんですけど、どうしても高くて」
「だよねえ。でもこのジュニアモデルならデザインは同じでもずっと安いし、あとこっちもおすすめかな。国内メーカーなんだけど一本材から作られてるからとにかく丈夫だし、音もヘタんないわけ。それに、ここだけの話あの人もレコーディングの時にはここの楽器使ってるみたいなんだよね。ほら、ニューアルバムのリード曲」
「ああ…!」
「いやホントかよ」浅香の小さな突っ込みを聞き流して続ける。
「そうなんですね。ありがとうございます」その場で即決できないのにこれ以上この場にいるのもなんだか申し訳なくて、もう少し話を引き伸ばした適当なところで切り上げた。星はというと、入り口の近くで中古の譜面台とギタースタンドを漁っていた。
「てんちょう、弦も買うから負けてよ」とっさに首根っこを捕まえる。店長には聞こえていないことを確認してそそくさと店を出た。
回り回って駅前の同じ交差点に戻ってくると、斜陽は駅舎よりもまだ少し高いところ、「茶」の字のちょうど真上辺りに居座っていた。
「本当背高いよな」星の顔を見上げると、鼻筋がイチイのそれと少しだけ似ている。
「お前にちょっとあげたいわ」
「1センチ一万だな」
「まじで、いいの?」
「うるせえ、お腹空いたな」
「だね。今日午前解散のはずで何も食べてなかったし」向かいにハンバーガーショップを見つけて、点滅し始めた信号を手を高く上げて渡る。二階の席を取った。前に並んだ星はスプライトを買い、さっきまでお腹が空いたと言っていた僕もなんとなくメロンソーダだけにした。店内もやっぱり混み合っていて、窓から外を見やると斜向かいのビルに予備校が入っていた。
「ぎりぎり金足りないところだった」
「さっき弦買うとか言ってたじゃん」
「やばかったねあれ」僕はため息をついた。
「疲れたあ」
「ほんそれ」
「俺あの店のにしよっかな」
「いいんじゃん?」太いストローに吸い付きシェイクと格闘する彼の手は骨ばっていて青い血管が透けている。僕の手はそんなことはない。
学校の話をした。それぞれ担任教師の無能さをアピールしたり、一年に七クラスのうちどこの女子が一番顔面偏差値が高いのかという評議会を開いた後で、「俺、イチイと付き合ってたんだよね」という一言が口をついて出た。何も意図していなかった告白に驚いていたのはむしろ自分の方だった。星はストローを諦めフタを外しながら言った。
「そういうの先言ってくれよな、さっきあいつのことかわいいって言っちゃったじゃん」口元に白いひげがついている。僕はほころぶ顔を隠すように大きな咳ばらいをした。
「で、いつからいつまで」
「でも、二か月ぐらい前から」
「いつまで」
「つい先月」
「くたばれ」星はローファーの先で僕の椅子を蹴った。
「お前だってさ、」続きを言おうとして、隣の女子高生たちの笑い声に思いとどまる。
「ありふれた青春送りやがって。ていうかさ、じゃああのバンドの中にカップルがいるってこと?」
「過去形だけどね。ストローで人を指すな」
「まじかよ気まずくね、オンガクセイノチガイで解散じゃんぜったい」ふてくされた星はソファに深く掛けYouTubeを見始めた。ニコニコ派の僕とはどこまでも相容れないやつだった。


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