見出し画像

双影 三(一)

 寺には南国らしく蘇鉄が植わっている。莉佐は通りを抜け、蔭めいた細い路に入った。
 莉佐が、省吾の育ったこの町に住むことを決めたのは、この湧き水に魅入られてのことでもあった。忍水が噴出す公園の池から方々へ川が延びており、営みそのあらゆる時と場に水音と緑が添えられる。よく調べてみたことはないが、暗渠となるところも少なくないのだろう。文字通り湧水に抱かれた町なのだと思えば、土地とその名は美くしく磨かれ、流れてもとの水ではない流れがともすると落ち込みがちな小さな町の停滞を洗い落すかのようであった。
 南へ延びた緑蔭の水路は、夏には蛍が舞い、冬には温かな水靄に包まれる。あくまで清らかな、爽やかな調べの路である。はじめて訪れたとき、省吾はしづく円葉の流れへ足を浸けて「ずっとこうしてきたんだよ」と、水底に靡く藻の色を差し入る光ごとかき混ぜた。その足の色の白さに、莉佐は彼の幸福な日々を垣間見るようだった。
 省吾は伯母夫婦に育てられた。学校に上がる前の年に、駿河から引っ越して来たという。それ以上のことは聞かないでいた。聞いたのかもしれないが、忘れていた。不注意で抜け落ちたのではない。過ぎた日のことを知ることで目の前のその人の深みへ踏み込めたと錯るような、若い年代を彼女は過ぎていた。
 緑の季節――おそらくそれはまだ出会って間もない頃、彼が語って聞かせた話だった。莉佐は、その中身はともかく、飛び石を渡るような慎重な言葉の運びと二人の間に置かれた一対のコーヒーカップを、まるで早瀬に取り残された網代木のごと縋るように見つめるその面持ちとを今も鮮やかに、愛しむべきもののように覚えている。
 省吾とは互いに育った場所や家庭こそその色は異なるが、くぐり抜けて来た書物の数やその偏りが驚くほど似通っていた。あるいは本来必要とすべき前提さえ省いて、微細な会話は傍から見ればいやみさえ帯びた。それを知りながら娯しむうしろめたさが、おしなべて単調な二人の生活にあだ花を飾った。
 しかし、もはや彼女はそれに何ら不思議を見出してはいなかった。目の色が同じことに宿縁を錯るような、若い年代を過ぎていた。それは他でもない、彼らがひとしく受けて来た教育―割合裕福で勉学が苦ではない一定の少年や少女がしかるべく受けてきた教育とそれにまつわる自学としての読書が、彼らをして穏和、怯懦な性格へと強く道をつけた。
 その果てが今の二人の仕事だった。もともとひとり歩くはずであった道のすぐ隣を往く人を連れ合いとしたから、そこにためらいもいさかいも無かった。彼の過ぎて来た道のことを振り返るのは、自分のそれを振り返るのと同じことで、詮無きことに思えた。
 幅の狭い飛び石を、前から渡ってくる人がいる。蔭がちになって顔はよく見えない。髪は短く切りそろえ、背は莉佐よりも少し低く、白い夏の服に包んだ身も細いことが、同じ女には分かる。斜にかけた鞄の小さいことから、同じく暇な身体を遊ばせているようではあって、それが目の前に来たとき、はじめてここではすれ違えないことに気がついた。莉佐はまごつき、後ろを振り返ったが、今来た路はしばらく狭いまま、引き下がるのも一苦労だった。
「すみません」と、莉佐が言うだけ言うもどうしたらよいか分らぬまま、どうにか身体をよじってすれ違おうと足を伸ばしかけたとき、向かいのその女は、いかにも――はじめからそうするつもりであったとでもいうように、身を屈めると、すばやくサンダルを脱ぎ、冷たい水の流れにさっと飛び降りた。
 小さなしぶきがたまゆらのように、ほんのひとときせせらぎに破調を下した。彼女は何も言わず、歩く道が一段低くなっただけとでもいうかのように、姫宮のように服の裾をつまみあげて歩いて行った。引き下がるその小さな背が時折日差しを受けて、光の斑を散らすのを眺めていた。
 一度川を離れて店屋の並ぶ通りを往く。交差路の向かいに親水公園を折れて、今度は桜川を南へ下る。さっきまでの水路のように足を浸して歩くわけではないが、大社まで続くこの道も、もう通い慣れた、憩いの道だった。
 向こうから逃げてきたのだろう、蛍を捕えて、「僕らと同じだ」と笑ったのは、囃子の音を背に、まるで弾かれるように祭を抜け出した帰りの道だった。
「これじゃ何をしに行ったのか分からないね」
「屋台物も何も買っていないし、お腹空いたわ」莉佐が不平を漏らすと、
「行列だったから仕方ないよ」と省吾は名残惜しそうに、振り返り振り返り歩いていたが、突然何かを見出すと、柵を乗り越えて川へ飛び降りた。
「どうしたのいきなり!」慣れない下駄の鼻緒がじんと痛んだ。
「ほら」手を使えない彼はどうにか踏ん張って道へと上がったが、着物の裾は汚れていた。
「買い取りになっちゃうかもよ」
「そしたら来年も再来年もこれを着たらいいよ。毎年借りるよりも割安だろう?」莉佐は笑って、借りて来た手籠からハンカチを出した。彼にこれを持ち歩く習慣はない。一応拭いてはみたが、すでに泥は染みこんでいて、洗うしかないようだった。

 「ただいま」いつの間にか眠ってしまっていた省吾は、しばらくの間、微睡みの汀で彼女の立てるぎくしゃくとした物音を聞いていた。それから、慌てて冷房を切った。手当たり次第に窓を開けて、何事もなかったかのように自分のつけたソファの窪みにまた腰を下ろす。幸い、彼女は洗面所で柔軟剤か何かを詰め替えているらしかった。
「ララのベビーシュー食べる?」閉じた端末の上に袋を下ろすと、彼女は汗ばんだこめかみを手の甲で拭い、川沿いを歩きながら思い出したのだという蛍の話をした。省吾は、わざわざソファの隣に掛けた彼女の少し汗に匂うのを、なぜこれほど熱っぽく思い出話などするのだろうと訝っていた。開け放った窓から、湿った風が流れ入った。今夜は嵐になるらしい。考査は済んだばかりなので明日一日がつぶれても大したことにはならないだろう、そう思うとにわかに黒く垂れこめた雲が頼もしく見えた。
「報告書類はできた?」
「ああ、暇すぎて向こうであらかた作っていたよ」莉佐は笑って、
「じゃあずっとホテルに缶詰め?」
「ああ、昨日の朝外濠沿いを少し散歩しただけ」
 それから莉佐は、今度はインフルエンザが流行り始めているとどこかで聞いてきたことを言って、げんに彼女がもっている学級が閉鎖の危機にあると言った。嵐ならまだしも、一週間もまた休みを取られてしまっては困ることもある。とはいえ、だからといってくたびれた身体を休みなしに働かせるのはつらい。省吾は、望みをかけるように雲の流れを目で追っていたが、やがてそれが幼いことと知って、端末を手に取った。
 莉佐は黙って服を畳み始めた。省吾はこれを見るのが好きだった。絨毯の上に置きっぱなしにしておいた抜け殻の山―昼過ぎに帰って来た省吾は、雲行きが怪しいのを知って、取り込むだけしてあったのだった―が、十二月の朝のイタチのように冷たく寝そべっていた。
「…ねえ、ねえ」
「うん?」
「前してくれた話があったでしょう、緑の季節の話」
「ああ、うん、あった」
「あの話、いつ思いついたものだったの?あのときが初めてでなかったんでしょう」
「ああ…」省吾は、寝転んだまま手元の水を含んで、確かめるように何度か深呼吸をした。莉佐は穂を継ぐでもなく、また洗濯ものにかかっていた。
「昔、浅香というやつがいてね」

 最後列で観た二時間弱の洋画は退屈だった。エンドロールが流れる前に立つのを、ふだんはそうしないためにかえってそれを抗議のしるしとして、トイレとつぶやきながら二人で席を立った。劇場の一階に小さなビストロが入っていて、互いに金があるときには、寄ることもあった。
「キッシュってなんだろう」
「知らない」入口のメニューから目を離し、街路を望む席についた。住み慣れた街も、窓を一枚隔ててはその色まで違うのか。省吾の前にはアペモーニ、浅香の前にはアマレットミルクとチーズケーキが置かれた。
「甘すぎない?その組合せ」
「良いだろ」浅香は細いフォークで器用に口に運んだ。
「俺たちだけモラトリアムを延長してもらったみたいだよな。何だかんだ皆もう就職しちゃってさ」
「ああ」
「そういえばお前覚えてる?一昨年だったかその前だったか、とにかく受験生のとき、制服を着てここに映画を観に来たことがあったろ」
「あの、最近やっと地上波で解禁されたやつ。思い出してきた、あの日はめちゃくちゃに暑かったんだ」
「そう、お前はあの日夏期講習をサボって」
「駅前のあの予備校か」
「あのときこの店オープンしたばっかりだったんだよ」
「そうだったか?」
「ああ、はっきり覚えている。なぜかって、そのときは(いつかこんな店で省吾と酒でも飲むことになるんだろうか)ってわくわくしていたんだから」浅香は心持ち遠い目をした。くだらないと笑うと、後にそれをまた笑われる気がして止した。
「それで実際に来てどうなんだ」
「まあ」浅香はグラスを傾け、カウンターに乗せた拳を軽く握って続けた。
「いや、それがさ、俺たちいつからか、こうして楽しい時間を過ごしている間にも(これがいつかかけがえのない思い出になる)とどこかで解ってやるようになった気がしないか?」省吾にはたしかな覚えがあった。薄まった飲物をあけ、同じものを頼んだ。
「よくこう聞かされて育ってきただろう。人間が最期に望むのはお金なんかじゃないから、後悔の無いようにやりたいことは全部やっておくべきだって。手垢のついた言葉なんだろうけどさ、それでもそんなどこかの名言を信じて、俺もお前もさ」くだらないと笑えば、またいつかの自分に笑われる。
「けど、あのときは違った。嫌で嫌で仕方なかった時間が、今よけい大切なものみたいに思い出されるんだよ。わかってる、後から見ればなんて言うんだろ。でも、調子の良い話だと思わないか?あんなことがあって、あの頃はそれどころじゃなかったのに。渦中にいるときは楽しさになんて何も気づかなかったくせに。こうやって振り返れるのもさ、俺らきっとお利口になっちゃったんだろうな。ちょっと汚くなったみたいで、いやだな」
「賢くなったなら願ったり叶ったりだよ」省吾は高い椅子にぶらつかせた足で窓を圧した。それから、話が途切れるのを避けるように付け足した。
「今度は外国に行こう」
「外国?…けど、いいな。なら良いカメラ買ってさ、夏ならあいつらも休み取れたりするかな」
「大丈夫だよきっと。あ、パスポート取った?」
「修学旅行以来かも」
「なら切れてるよ。二十歳以上なら十年で取れるから、そうしよう」慣れない空しさに襲われた胸のうちはすぐに満たされていった。そしてその時僕は思ったんだ。僕らが今そしてこれから味わう幸福は、その形は、こうやって今日みたいに形ともいえないやわらかな形をしているのかもしれない。色だってこれまでみたいに痛々しい青でなくて、もっと穏やかな、淡い緑色だ。青春を過ぎて赤い夏が訪れるまでの、短いがたしかにそこにあるはずの、穏やかな緑の季節。

「緑の少女」(2018-2019)

代助は車ののなかで、「ああ動く。世の中が動く」と傍の人に聞える様に云った。彼の頭は電車の速力を以て回転し出した。回転するに従って火の様に焙って来た。これで半日乗り続けたら焼き尽す事が出来るだろうと思った』莉佐は頁を閉じた。
「このあたり?」
「ああ、もう少し」省吾は答えた。閉じた目に熱いものを怺えた。
忽ち赤い郵便筒が眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘を四つ重ねて高く吊るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲がるとき、風船玉は追懸て来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車と摺れ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋の暖簾が赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりと燄の息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗って行こうと決心した…
「…ありがとう」省吾が言った。莉佐は省吾の飲み残した水をあけた。
「たしかに、露骨な強調のされ方ね」
「そうだろう?『頭に吸い込まれる』なんていうのはまた、冒頭の叙述と重なってくることもあろうかとは思うんだが…」
「『三四郎』がまあ青春の物語だったとするなら、『それから』は朱い夏に巻き込まれるまでの短い季節の話なのだと」
「まあ、そうだね。きっとその頃の僕は、そんなことを考えていたのだと思う」
「なら、」本を棚に戻して、彼女は言った。
「私たちは今まさにその『緑の季節』にいることになるの?」当然問われるべき問いであった。しかし省吾は、恐れていたことが起ったとでも言うように、
「それが分からないんだ。はじめてそれを口にしたときから今まで、何も変わっていないような気もするんだが、かといってこれがずっと続くなんてことも思っていない。もちろん、続いて欲しいとも思わない。けれど、これから燃え滾る『朱い夏』に飛び込んでいく膂力なんて、静かに老い始めている僕らに残されるんだろうか」
莉佐は黙って、ベビーシューを皿に並べ始めた。少し凍らせてから食べると美味しいと、自分はすでに一つつまんでおいてから冷凍庫に仕舞ってあった。
「いつかあったじゃない、台風ばかりで暑い日のほとんどなかった夏が」
「ああ、それってたしか僕らが働き始めた年じゃなかった?」
「そうだった?」
「ああ、夏休みの吹奏楽部の合宿がそれでつぶれたんだ。よく覚えている」
「そう…そんな風に、思いのほか涼しく過ぎる夏があるかもしれないわ」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?