見出し画像

緑の少女⑧

 次の朝、駅で浅香と出くわした。向こうが軽く手を上げヘッドフォンを外した。
「昨晩は、どうも」特別な気まずさがあった。
「直接話すの初めてだよね。石見啓介です、よろしく」
「うん」下の名前を聞く前に、改札口になだれ込む人の流れにはぐれてしまった。雑踏を抜けるともう浅香の姿がない。驚いて見回すがあたりにそれらしき影はなく、遅刻は後で面倒くさくなるから途中で諦めて坂道を駆けた。
 放課後に教室を尋ねると、彼は一人机に向かい真剣な面持ちでペンを握っていた。
「あの、石見だけど」
「ああ」浅香はそう応えたきり顔を上げようとしない。何かの鳥が嘆きのように甲高い声で鳴いた。もう一度呼び掛けようとしたところで、彼はやっとペンを置きこちらを向いた。
「朝はごめん。はぐれてるうちに彼女と出くわしちゃって」出会って間もない自分にガールフレンドのことを話すなんていやみな奴なのかもしれない。
「そうなんだ。まあ気にしないで…それ、なんか描いてたの?」
「いや、別に」浅香は机の上のものを慌てて引き出しに仕舞おうとしたが、トレーシングペーパーや何かイラスト集のようなものがはみ出ていた。
「もしかして、ピクシブとかに投稿してる系?」わざとらしく言ってみた後で、浅香の顔を見た途端にそれが間違いだったことに気づいた。彼の顔は一気に赤くなり鼻のてっぺんに汗をかいている。彼は震える唇を開きゆっくりと言った。
「そんなことない」何故か掲げた両腕の角度は、敵意のないことを示す捕虜の画みたいで、おおげさなのがおかしかった。
「それでさ、星から聞いたんだけど浅香君ギター弾けるんだって?」
「ああ、少しね。でも、高橋國光みたいなテクいのは無理だよ」いきなり分からない名前が出てきたけれどこれ以上無知を晒すのも嫌でただ相槌を打つ。
「俺さ、楽譜見ながらコード追うぐらいはできるんだけど、もっとうまくならなくちゃいけなくて」
「じゃあ俺が教えられることなんてもうないでしょ」
「いや、そうじゃなくて。その、一緒にバンド組まない?星も一緒なんだ。もう文化祭終わっちゃったけどさ、俺たちまだ一年生だから、来年もあるし」浅香は…これがもう全然白けていた。何か馬鹿にしているようにも見えた。昨日の星との作戦会議の楽しさがもう全く嘘のように、彼の眼は僕のしようとしていることを子供のおままごととでも言うのだったら、やっぱりいやみな奴だ。
「ごめん、他当たるよ」何も言わない浅香にひどく傷つけられ教室を出ると廊下の角で知らない男子と鉢合わせた。同級生には見えなかったので、軽く頭を下げた。

 六枚目のカレンダーを点線に沿って切り離すと、七月は真っ白なビーチの絵だった。昨日は明け方まで起きていて、夜中じゅう何をしていたのかは覚えていない。軽くなった鞄を肩にかけ家を飛び出す。真っ青な朝の光と裏返しになったポロシャツの襟に駅までの足は自然と早まった。下り坂だからというのも、たぶんあった。
今日も遅延中の小田急を乗り継いで、十条駅で降りる。歩道いっぱいに広がった女子に聞こえないように人数分の舌打ちを投げて早足で抜き去る。僕は、これから始まるテストの後の何日間か、終業日までのおまけみたいな消化日程の日が一番好きだった。もちろんそれは、答案の返却と大掃除のためだけに朝早く集められる理不尽さへの怒りとセットに、だ。
 一年生の下駄箱の前で浅香と会った。実はというと彼とはあれから何度か話をしていた。初対面があれほど最悪なものだったのに、それ以来何度か出くわす度にぽつりぽつりと、ついこの前の休みには数学を見てもらえた。
「だからさあ、桁数の問題は解法決まってんだからそれ覚えりゃ終わりなんだって」と整数の性質について語った彼の高い鼻の孔の変に細長い形に彼が悪い奴でもないんだと気づいたのが一昨日のことだった。
「おはよ」
「うん」浅香は片手には本が挟まっている、これみよがしに持っているが、あの色の紙カバーは啓文堂のライトノベル用のものだということを僕は知っていた。彼が頁に目を落とす姿はきっとあまりに様になっていたから、いつかこのことを暴露して面目をつぶしてやろうか。まあでも、制裁はひとまず保留にしておこう。下駄箱の足元に敷かれたすのこの隙間にスパイク底の型に取られた黒いグランドのかけらが落ちている。朝練はもうとっくに終わっている時間だった。用具入れとグランドとをあわただしく往復する同級生の姿に、スポーツ推薦を受けて大学に行った三つ上の従兄のことを思い出した。
「テストどうだった?」
「いやですね…教えてもらったとこテンパっちゃって全然解けなかったんすよ、かたじけない」
「俺の努力を返せ」
「ごめんってば、牛乳プリンおごるから」
「は?」
「じゃあ明日焼プリンもつける」浅香はいまいましきラノベを脇に挟んで室内シューズのひもをていねいに結んでいる。
「今日の科目は?」
「全然勉強できてない。何ならいつもよりよく寝た」
「本当かよ」
「お前だって昨日浮上してなかったじゃん。コソ勉してたろ」
「んなわけ!ハハハハー」オンライン上のノリを持ち込める浅香はイタイけどいいやつだ。
「うぃー」間の伸びた挨拶で星が入ってきた。もちろん彼もツイッターをしている。シュールギャグを投稿しては毎回ちょっとバズらせるような、いけすかないタイプのアカウントだ。僕もそれを欠かさず見ていたし何なら昨晩のツイートも覚えているけれど、決して「いいね」は押さなかった。今のところ星のセンスを認めることはできない。浅香と星は同じ中学ということもあってわりと仲良さげだった。
「昨日見た?」
「あらびき団?」
「そ」今はたぶんお笑いの話をしている。ゴールデンのバラエティくらいしか見ない僕が立ち入ってゆけるレベルではないので聞き流す。ふとまた、イチイと星が一緒にいた夕暮れの教室のことを思い出した。あれから僕とイチイは二週間ほど顔を合わせていなかった。ブラスバンドがいそがしいというのは分かっていても、タイムラインには浮上しているのに自分への返信だけがないときはどうしてやろうかと思ったし、これといった理由もないのに連絡を入れてくるときはさらにもどかしかった。彼女のものである白猫のアイコンが時間順に並ぶ通知欄の外へはみ出してしまうのが不安で、公式アカウントからのメッセージをしばしば消した。イチイは戸田に住んでいるらしいけど、家族のことはあまり話してくれない。部活の休みを縫って予備校に通っているらしいのだけれど、なぜ家からも学校からも遠い街を選んだのかは聞いてみてもはぐらかされるばかりだった。僕はイチイのことを何も知らないまま彼女のカレシになって、そして「友達に戻った」。
「そういえばさ、キララって知ってる?」
「キララ?誰それ」星も自分も上履きに履き替えて三人で階段を上る。
「雲に母って書いてキララ。おかっぱ頭の、夢見ねむみたいな、声優の」
「ああ、あれでキララなんだ。『うんも』だと思ってた」
「てか声優じゃなくてアイドルな」
「ちょ、うるさい、」
「それで、キララさんがどうしたの」彼女のこともタイムライン上でだけ知っていた。頻繁に呟いているし、なにより相互フォローだった。割といいねもくれるから、一時期好きになりかけたこともあったような気がする。
「いやあね、その子が学校辞めるらしいんですよ」
「え?」驚いた拍子に最後の一段を踏みそこなって足首を捻った。顔をしかめて後ろを見ると、さっきまでのライトノベルはどこへやら、浅香は今度は携帯を横持ちにしてゲームを始めていた。彼を放って星と話を続ける。
「でもなんでいきなり?何なら昨日だって浮上してたよ。ヴィレヴァンのTシャツがどうのって」
「あれな、気持ち悪いよな」
「いや、それは知らんけど」
「彼女もいろいろあるんだって。片親だし」
「なんだよそれ、ださ」
「でもさ、高校辞めちゃったらこれからどうすんだろうな…っしゃ宝玉!」画面に目を落としたまま浅香がつぶやく。
「まじか、今モンハンまで割れてんの?いやな時代だ…」
「いやでも、高校中退してどうすんだろ」
「んーまあでも、バイトとかして暮らせるしょ」歯切れの悪い答えに、自分たちがただの高校生だということを改めて思い知る。親元にいる非力な僕たちは、まとめサイトを通じてなるだけ理論武装をするけれど、夏目漱石をかじって一つ覚えのように高等遊民と口ずさむけれど、本当はなんとなくとしか決められていない筋道もそこから外れた途端ふつうに生きてゆくことはめちゃくちゃに難しくなる。昔一度だけ通ったことのある歌舞伎町はいつしか僕の中で模範的な不健全のステレオタイプになっていて、キララもその街の住人になるのかなとむだに想像すると足元がぐらつく感覚に襲われた。僕らのちょっとした病み期は、アイゼンのつま先にパックリと開いたクレパスみたいなものだ。
「あとさ」星は素行不良少女にすぐに興味を失った。
「浅香、バンドやろうぜ。俺と石見とさ」恐ろしく気の利かない奴だ。あれ以来神経質なくらいに音楽の話を避けていたのに。星は非難のまなざしに気付く様子は全くなかった。
「やっぱりさ、最初はコピーでもいいけど後々は曲も自分たちで書いてさ」
「いや、さむっ。オリジナルなんてありえん」
「なんだとキモヲタ」
「時代はニコニコなの、昨日石見と生放送の収録見てきたし。なっ?」
「いや、パルコの前通りがかっただけでしょ」
「高校生なんだからさ、やっぱバンドだろ」
「うっせーよ青春病、とにかくオリジナルは嫌なの」
「わかったわかった、じゃあコピー」
「まあコピーだけなら。楽器触りたいし。で、どうすんの?うち軽音部ないけど」
「そこなんだよ問題は。どうすればいい?」
「あ、俺に聞いてる?うーん、まず申請かけてみなきゃだけど、五人いないとまず通らないな。もしそうなったら自分たちでスタジオ借りて練習しかないだろうけど」
「え、待って待って、浅香お前やるの?」やっと割り込めた。
「前、俺が話したとき無視してきたじゃんか」
「え、そうだっけ。俺が考えているうちに勝手に帰っちゃったから拗ねたのかと」
「はー?」
「あ、そうだ。あの時嫌いな先輩が廊下歩いてたんだよ、あいつサッカー部ってだけで調子乗っててイライラするんだよね。バイトテロか何かで炎上しねえかな」
「え、だから?」
「そう、だからバレないように威嚇してたの」
「なんじゃそりゃ!」大きな声に数人の女子がこちらを振り向いた。
「じゃ、」角の教室ではぐれる浅香の肩をにらみつけた
「はあ…」
「えーと、結局お前の早とちりだったってこと?」
「いや、本当にあいつ変な顔してたんだって」
「ま、いいや。とにかくこれで三人集まったな」星はぱっくりと開いた鞄を安全ピンで留めているのだけれど、入学早々彼の鞄に何があったのだろう。教室の向かいは外に面したバルコニーになっていた。誰かが持ってきてそのままになっている備品の椅子に腰を下ろして僕は汗をぬぐった。まだずいぶん早い蝉が何匹か、お互いに勝負を途中で降りられなくなったのか、途切れなく交互にぎゃあぎゃあやっていて、なんかフリースタイルダンジョンみたいだなと思いながら一日一回のゲリラダンジョンを回していた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?