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緑の少女④

 アートマンが自分の背中を目にした。深い夢は鋏にかかって枕元に落ちた。もう忘れたはずだったのに、泉のように鮮やかに噴き出したそれは閉じた胸の傷を元とは違った形に開いてみせた。雨雲に遮られた暗い部屋のベッドの上で、こめかみに手を当て逃げてゆく夢の尻尾を掴もうとする。意識がはっきりしてきたある時点で、偏頭痛は自分の役目を思い出したように僕を苦しめ始めた。大きく開いたカットソーの丸首から覗く胸のくぼみが嫌になって、衣替えしたばかりの薄布団を足ではねると左右に首を振って目にかかった髪を払った。
「やっと起きたね」低い声に気づき開いたドアに漏れる光を向く。寝起きを覗いていた彼女も目をこすっていた。寝巻に使われてしまっている僕のTシャツは肩が落ちていて、全然いやらしくないけれどブラジャーの紐から目をそらした。彼女が微笑んだ。僕は一度にいつもの朝へ戻ってきた。今日は公園へ行くんだった。昨晩サッカーゲームに負け越した樹紗は、本当の足さばきでは負けないと僕に押し入れの中を探させた。
「こう見えても小学校の頃地区選抜だったんだよ。男子に交じって走りまわってたの」
「そっちは、外でサッカーできるの夏だけだったりして」
「うん」冗談のつもりで言ったらほんとうだった。「二年石見」の文字のかすれたサッカーボールに空気を入れる彼女の後ろ姿を見ていた昨晩のことを思い出した。今日もきっと穏やかな一日になるだろうし、それを底の見える澄んだ浅瀬のようにどこかなんとなく持て余しているのかもしれない。そういう朝だった。

 散歩のコースは同じでも、退屈なら退屈でも、僕らにできることはいくらでもあった。ほかよりも人の少ない北改札で待ち合わせたら初めにサンロードをぶらぶらする。喫茶店の前で分厚いホットケーキのサンプルに足止めされたり、いつも閉店セール中のアクセサリー屋で鏡を前にああだこうだ言ってみたり、裏路地のゲームセンターでユーフォーキャッチャーのアームの弱さに文句を言ってみたりした。それは全部が全部ちょっとした計算づくのじゃれあいで、でもそれにすらお互いが気づいていた。冬の寒い日には、交差点の角の店でボルシチを食べてジャム入りの紅茶を飲んだ。
 その日は梅雨の間晴れの青い日で、僕の電車は待ち合わせの十分前に着いた。昨日まで実家に戻っていた彼女は、革の大きなボストンバッグを引きずりながら現れた。
「ああごめん、持つよ」
「いいのいいの、ロッカーに入れましょ」駅のコインロッカーがSuicaに対応していることに樹紗はとても驚いていた。
「どうだった、お父さんは相変わらず?」
「うん。今年から農大の人たちが実習か何かで牧場手伝ってくれることになって、寂しくはないみたい。物好きだよねあの人たちも、何もない寒いだけのとこに住み込みだなんて」あ、そう、と手渡してきた炭酸飲料はガラナと言って、彼女は地元にしかないそのジュースを毎度頼まれもしないのに買ってくるのだった。
「またこれ」
「嫌なの」
「いや、これ飲んでると思い出すんだ。前に十条銀座で食べたバクテー」
「全然違う!てか啓介こそ変なの好きじゃない、なんだっけ、ほらあれ」
「ドクターペッパー?」
「そうそれ、杏仁豆腐みたいなへんな味のやつ」キャップを開けようとしても滲んだ汗が滑るようだった。
「貸して」固く張ったボトルはもう常温に近く、それを渡す小さな手のひらには鞄の取っ手の跡が赤く残っていた。
 靴屋の交差点から延びた道を途中で左へ折れると、急に辺りは薄暗くなる。この街に何十年も大切にされてきたのであろう老樹が幾本も立ち並ぶのが公園の入口だった。
「前に来たときはかいぼり中だったよね」弁天堂の鰐口を鳴らして樹紗は言った。財布の奥に五円玉を見つけてそのうちの一枚を渡すと、「自分のお金じゃなくてもご利益あるのかな?」と不安げに呟く。
「大丈夫だよ。神様はそんなにケチじゃない」
「啓介みたいにね」二人で手を叩く。樹紗はいつも僕よりも長いこと目をつむっているけれど、いったい何の祈りなのだろう。それが、僕にはとうてい叶えてやれない不老不死とかそういう類のものであればいいと思った。彼女が目を開けるのを待つ少しの間、僕は三鷹の広い空を仰いだ。
 まだかろうじて我慢できる暑さの中、木陰を選ぶ歩みはほろよいを飲んだ後のようだったけれど、それもじつは計算づくなのを僕は知っている。緑が日増しに濃くなってきたことや街中のつつじが色あせてきたことは、昨日電話で話したはずだから改めて話すこともない。ここ一年ぐらいは、季節の変わるそのあいまいな境目にも僕がいち早く気づくようになっていた。
 樹紗は、落ち葉の上を飛び石の要領で僕の先を行く。歩幅は無理に広く、僕はそれについていこうとはせずに彼女の小さな背中を目で追った。肩に落とした髪の内側の、細く短い首筋にはほくろが並んで二つある。肌荒れは不摂生ではなくてもともとの体質のためなのに、彼女はそれをずっと気にしていることを僕は知っている。また明日になれば彼女は仕事に出なきゃいけなくて、何も話してはくれないけれどたぶん相当忙しいところなのだろう、彼女は帰ってくる夜ごとにその顔があべこべになっている。僕はこうしてかれこれ学生を何年も続けていていつ芽が出るかわからないし、そもそもはじめに蒔いたのが何の種だったのかさえ忘れてしまった。僕は、だから今日ぐらいは、と思った。こんな日曜日ぐらい、風呂の掃除も洗濯の取り込みも週に一度の缶のゴミ出しも、暇な僕が代わりに全部してあげよう。半ば意地になったように、海にまで続くというゆたかな湧池に浮かんだ白鳥の群れと、彼らの寄港する桟橋の先をにらんでいた。
「今日はもう帰ろっか」
「まだこんなに明るいのに」
「そうだけど」
「でも、うん」
「いせやでシュウマイを買って帰ろう、ね」パンの自販機の置いてある茶屋の横を抜けると、苔むした石段の延びた先に大きなマルイの看板が空へ突き出している。樹紗は公園から駅へ向かうこの細い通りが一番好きなのだと何度もその訳を言って聞かせ、僕はそれに適当にうなずき、古着や雑貨やバインミーを売るワゴンが並ぶその路を二人でゆっくりと歩いた。
「勉強の方はどうなの?」
「『勉強』って、小学生じゃないんだから」
「小学生」
「うん、でも僕は案外文系でもやって行けるみたいだよ。なんだかんだこれが自分に合っているのかもって、やっと気づいたんだ」
「相変わらずだね。私にはよくわからないけど」
「わからないわけないよ。樹紗だって、あんなに卒論頑張ってたのに」
「本当は、嫌で嫌でしょうがなかったんだよ、あれ」
「えっ」僕の驚いた顔を覗いて、彼女はレモンキャンデーのように優しいその目を見張った。

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