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双影 三(二)

「その代わり嵐になっては仕方ないだろうけど」
 インターホンが鳴った。定期便の水が届いたのだろう。もしくは彼女の頼んだコンタクトレンズか。
 省吾は痺れかかった手で枕をしなおし、白い天井を睨んだ。どこからか、せっかちな蝉の声が聞こえた気がした。 頭上で何かが光った。虫だろうか。いや、そんなはずはない。蛍は話の中で出て来ただけだ。淡く、小さな光だった。その光は、夜空に見る劣等星のそれによく似ていた。しかしもちろんそんなことはない。ここはマンションの六階で、彼が見上げているのはまだ比較的新しいクロスの天井で、何よりも、時計は昼の三時を指していた。
 彼は、その光を何か他のものに喩えようとした。小さな背を丸めて画面に向かう彼女は、大水に浚われた川床に顔を覗かせた幾粒かの砂金のような天井の光にまだ気づかないでいる。足を組み替えると、革張りのソファの表面がふくらはぎの裏に吸いついた。この部屋の全てのもの―家具や、洗濯物や、そしてほかならぬ彼ら自身―は、開け放った窓から流れ込んでくるぬるい風にあてられそれぞれの引き締まった輪郭を失おうとしていた。
「ねえ、さっき寝ちゃう前に、プラネタリューム見てたでしょう」彼女はこちらを振り返って言った。
「ああ…」やっと思い出した省吾は、すばやく身を起こし奥のダイニングテーブルに目をやった。いつかの冬に彼女が買ってきた、家庭用プラネタリウム―暗色の天球儀に穿たれた穴は、僕らがいくら手を伸ばしても触れることのできない太陽系外の星々だった。僕の喩えは、間違っていなかったのだ。
「暑くなってきたね」省吾は言った。彼女は画面から目を離さずに、何度も深く頷いた。「霧が峰」なんて大げさな、でもなるほどよく冷えそうな名前ではあった。
「アイス買ってきたんだよ」冷たいものばかり、と口を開きかけた彼を制するように、莉佐は袋からかき氷のカップを取り出してくれた。彼女の好きな味だった。(そしたら君は何を買ってきたんだろう)と窺っていると、全く同じ白くまアイスがもう一つ出てきた。安心して蓋を開けると、白く甘ったるい汁が手のひらをべったりと濡らした。
「大丈夫。もう過ぎたの」
「だからといって、冷やしてばかりじゃ…」
「私が甘いものを食べたかったの。だめ?」省吾は、なぜプラネタリウムを買うことになったのか思い出そうとした。こんな玩具、何かきっかけがあったはずだ。
「最近まで知らなかったのだけど、これ熊本のアイスなんだって。だから「白くま」って言うの」
「熊本?鹿児島じゃなかったか」
「あれ、そうだっけ、そうだ鹿児島だ」彼女は上に乗っている小豆を全部こちらに移して、小さなパイナップルの切れ端をいとおしそうにかみ締めた。
「そう、それでね、向こうに行ったら、1リットルぐらいある大きな白くまがあるんだって」窓を閉めないまま点けた「霧が峰」は、不憫にも精一杯の冷風を吐き続けていた。
「食べたいな。桜島見ながら、白くま食べたい」彼女は言った。
「じゃあ今度の夏休みに行こうか」省吾は言った。
「うん…」
「どうしたんだよ」
「ううん、でも部活が」省吾は莉佐の手を握った。これほど冷たいものを食べていて、どうして汗をかくのか。
「でもさ、鹿児島は火山の国だから、暑くて、白くまもきっと溶けちゃうよ」と省吾が言った。彼女は「そっか」と言って、味のない塊になった氷をスプーンの先で崩していた。

 全てが自然と歌になるような、何よりも探していたのはそんなものだった――共有のSpotifyで覗いてしまった彼のプレイリストで、なぜいきなりプラネタリウムを買って来たのかを知った。
 知ってそれを後悔することはなかった。むしろ、さまざまのことが腑に落ちたし、申し訳なさが胸に湧いてきた。静かに、ゆっくりと歩みを進めようと、なだめすかし押し込めて来たそれは、温かい波のように彼の足元を濡らし、それから…。
 不貞という語はあまりに喜劇的過ぎる。 
 雛子との通話が切れた後も画面に向かっていた莉佐は、しばらく前から喉の乾きを感じていた。が、だからといって鍵盤を叩く手を止めはしなかった。
 まったく喜劇的だ。冷蔵庫の中身は使い尽せぬほどもある。ポケットの中で居ずまいを悪くしていた車の鍵を机に放りだすと、再び画面に向き直った。
 誰にでも起こりうる過ちだから、というのはある。自分が指弾される立場にあるから、というのではない。莉佐にしてみれば、むしろ長い付き合いがたんなる絆しとなってお互いを縛り合い、静かな苛立ちが募る方が――平穏を装った永い争いの方が、よほど恐ろしい結末を招きそうではあった。
 だからといってそれは、たとえば省吾のそれを手放しにみとめることにはならない。それは、彼女の中ではっきりと答になっていた。莉佐はこれまで、自らに歪みを強いる健康さと掟なき野性という二者を絶えず目にしながら歩いてきたつもりであった。乏しい林を隔てて、選ばなかった道もすぐ向かいを走っていることが、やけに眩しい木漏れ日の鋭いストロボスコープから分かる。選び取るべき道が一つではないと知りながら、迷わずにその狭く明るい道を選んできたつもりであった。
 彼女は、万人にそれを求めるつもりはないが、盲目的にではなくあくまで自ら選び取って来た毎度毎度の選択に静かな矜持を持っていた。それは、たんなる傲りではない。むしろ過ぎた時への鎮魂や祈りに近い。
 何かひとつの道を選び、その道を往続けることは、後ろを振り返らぬ勇猛さとも違えば、たんに慣性に身を任せるのとも違う。変えぬ、止めぬという選択を折に触れてたしかめ、再び歩み出すということに伴う困難や疲労が、あるいはなんてことのないある一日―それは風の無い、穏やかな春の一日であるかもしれなかった―に突如立ちはだかり、それに対する人を暗澹たる健やかさの底へ突き落すことがある。お前の信じ、選び取った道は、未来へ向けて絶えず削り取られている時間という流れの中で、もはや再び引き返せぬことを含みおいてもなお信ずべき道なのかと。まだ間に合う、引き返すことができる。踵を返すとすれば今しかないのだと、自らによく似たその影絵の群れが、虫のごとさかんにさざめく。
 そこで足を止めぬ者はない。足を止めぬ者は、力に任せて影を引きちぎった生きながらの骸にすぎない。人がそれを信じ歩いてきた道程が長ければ長いほど困難の壁は厚く、恃んできた正しさはこれからの岨を行く金剛杖としてあまりに心もとなく感じる。先の景色がつねに見えないことがその理由であるし、ふと頭をもたげる迷いが天啓のように思えるのもその一つだった。人はそのとき道を引き返したくなる。過ぎて来た道のどこかによりふさわしい、新しい答があったのではないか。自分がそれを見過ごしていただけではないのか。自らを疑うこと、迷い続けるということは、その誠実さの限りにおいて最も避け難い安逸である。
 迷っているかぎり遮幕の向うでゆらゆらと揺れている影法師のような「私」たち、写し鏡のように連なるその他あらゆる時と場の「私」―そうでなかったかもしれないという思いをめぐるあらゆる「私」を闇に沈めるのは、あまりに無残な仕打ちにしか思えない。自らの手で沈める者たちの嘆きや呪いの声を耳にしながら、彼らに死を齎す者としてその平穏を祈るという鋭い矛盾が、自らを白州に立つ者のように責め立てる。それを避け、いつまでも迷っていようというのは、何かを選び続けることで当然生じる痛みを避けようとする、まっとうな生への向性にすぎないのではないか。
 むしろ、一つの道を選び続けることは、愚かと知っていながらその道を行く真の意味での取り返しのつかなさを絶えず感じ続けるという、巡礼者のそれに似た、途方もない贖いに近い。贖う主すら遙か昔に失っているのであるから、それはだから徒労に過ぎない。もはや何の為にそれを続けているのか分からない。それを固執と呼ぶのなら、それにしがみつくことで歪められる自分――静かに撓んでゆくオパールの背骨を懐手をして眺めるあまりに酷い自らへの仕打ちであるだろう。誰がそのようなことを好んでし続けられるのか。
 それでも――と、莉佐は考えた。
 それでも、かりそめにも二人が共に歩くということは、たとえそれが同じ荷を負うことは叶わずとも―そのような不遜をはなから望んでいるわけではない―胸の内に秘めたもの、月と星のように、互いに引き合う二人が手を取りながら常に陰がちとなる面を持っていることを予感として知りながら、それでも時を経ればそのいびつさ――靴底の奇妙なすり減り方まで似通ってくるのだろうと、その歪み方に後ろ暗くもある愛おしさを抱くのだろうと、その歪みをもって二人共に歩いてきた証と、そう思ってほしかったし、そうであるべきだとときに強気にもなった。
 彼女が決して言い出せないのなら私たちが代りにそう言ってやるべきだろう。莉佐は、ひたむきに省吾を愛していた。
 いくばかりかは理解の及ぶ理屈の飛び石を、情緒という流れが絶えず隔てている。むろん、血の通う人であるから、その流れの絶えることはない。死してのちも、遺されるのはその流れが遺した水底の文様ではあるまいか――莉佐がすぐれていたのは、自らのそのあえかな心をみとめ、まっすぐに苦しがることのできることだった。数度痛手を負っただけでは身につかない、諦めとも居直りともとれる受け身の形である。
 あまりに固く結いた紐だった。結んで解けぬと思っていたのは、言葉を省ける仲の二人がそれぞれ折に触れて結び直してきたものにほかならなかった。今まで沈めてきた「私」は、川底の古い葉層のように、すでに深く沈みきってひとまとまりに混ざり合っている。手を差し伸べても、掬うのはもはや形のない泥にすぎなかった。いつ、どこの私か見分けもつかない。莉佐は深い徒労を感じた。
 莉佐は携帯を机に伏し、服のままベッドに身を放り出した。
 それはひらめきに近かった。
 自棄とも違う、まっさらな気持ちを山巓の空気のように清々しく流れ込んだ。深く沈む身体を甘く甘く持て余した。結びつけなくても良い、紐であった美しい鰭が、私や省吾の疲れた頭を撫でる。流れ込んだ風が思わぬ窓を触れて、たくらむようにつむじを掻いている。
 莉佐は、ベッドから滑るように降りると青い光を浴びた。

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