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双影 四

 雛子はしきりに首をさすって、痛い痛いと子供のように騒いだ。
「身体よじって後ろばかり見ているから」
「だって、しばらく外に出ることもなかったから」朝早く浜を出た二人は、港で朝食を取ったのち、少しでも目に付いた所には車を止めながら、だらだらと海岸線に沿って西へ走った。アクセルを踏む足は、まだ痛んだ。
「三島からこう海を左手に見ながらこの道を走っているとね、そのたびに弓の浦のことが思い出されるの」
「弓の浦?どこですかそこ」雛子は少し下した窓から海風を浴びていた。音はうるさくないらしい。
「私も行ったことはないのだけれど、九州だったかな、言っていたわ」省吾の名は伏せた。あわてて「友だち」などと繕ってしまえば、その声色に糸目を見つからないとも限らない。話の出処が知れないような、妙な言い方になった。
「山を削りだして小さく構えた、文字通り弓形の港町なの」
「そう」
「そう思えば、この海に沿って延びた道は、大きな大きな弓なりの道だわ」    速度を落とし細い道を上がる。雛子の祖母が二人を出迎えた。
 爛々と灯る実のわりに、陰気な感じのする木だった。高さは三メートルほどもあったろうか、するするとましらのように上った雛子は熟れた実を一つもぐと、声もかけずにそれを落とした。
「ずいぶん達者なのね」雛子の小さな背に呼びかける。海にせり出した峠の切り立った土地にしがみつくような畑だった。雲の切れ間から日が照りだして、蒸すような暑さだった。
「どう?味は」莉佐は慌てて皮を剥こうと爪をかけた。が、ほとんど崩れかかった実を損なわずに剥くのは難しそうだった。雛子の祖母が黙って彼女の手からそれを取った。
「あ、」祖母は実を半分に割ると汁まみれに汚れた掌にその半分を差し出して、花咲く蔭の少女のからかうように笑った。莉佐は、祖母の作法を横目に自分もその熟れた、陽の雫のような枇杷の実をすすった。
 仕事としての収穫は殆ど済んでいて、二人のために残しておいてくれた一本の木だった。籠に積むと、祖母は二人をそこに留めてさっさと下へ下がってしまった。
「昔はもう少し遅くまで実っていたのだけどね、最近は五月末には収穫が始まるんだって」
「そう、今年も暑いものね」二人は座りの良い木の根に腰を下ろした。海から吹き上げて来る風が汗を引かせた。
「向こうに沼津の町が見えるでしょう」
「ああ、本当だ」
「幼い頃ね、夕方になると、私いつもここへ上がってきて、私のいる峠の後ろに落ちていく日が向こうの町を真赤に染め上げてゆくのを眺めていたの。山も海も家も人も、町の全部が夕日の溜まりになって、洗っても落ちないのじゃないかって心配になるほど。それで自分の背中まで熱くなるような気さえした」
「夕溜まりの浦の町…」
「それでね、ある夜、明け方だったかな。悪い夢で目覚めてどうしてもまた寝付かれなかった日、こっそり家を抜け出してここまで上がって来たの。あんなに真っ赤に染まった町がどうなっているか気になったのもあるかもしれない」
「真っ暗だったでしょう?」
「うん、もちろん。灯りも数えるほどしかないし、その奥に覆いかぶさるようにそびえているのっぴきならない山の黒が、えたいの知れない怪物のようでおそろしかった」
「悪夢から逃げて来たのに、かわいそうに」雛子は、あのあまえかかってくるような目で、莉佐を見返した。
「それでなんとなく、いつも遊んでいたこの木に上ってみたの」
「あぶないわ」
「どこに手をかけて足を置けばいいかなんてもう身体が覚えていたから、なんてことなかったわ。上がると、その時はまだ収穫の時期ではなかったけれど、少しずつ色づいていた枇杷の匂いがほのかにして、あたりが暗がりながらそれでも見分けがつき始めていることに気がついた。はじめは猫の眼だと思っていたけれど違った。それで私すっかり落ち着いて、いつの間にか澄み始めた海の藍から碧へと移ろう色を、掌で溶けてゆく氷をいつくしむような気持で眺めていたの。あんまりのその色の深さに、自分の瞳さえ青く澄むんじゃないかって、そんなことまで思ったわ。でもね、しばらくすると、それまで恐ろしくて目を向けないでいた山の端が一瞬きらめいて、その向こうから次の朝の日が上って来たの。本当に一瞬よ、海面を飛魚みたいに光の筋が走って、峠の足元から真赤な日溜まりが上ってくる。避けようがないわ。そのうちすっかりこの畑まで日の下にさらされた。それで、その明かるみの下で、これからという実たちは目いっぱいに朝の光とみずみずしい空気とを、それがこの子たちの仕事なのよね、その身にたくわえ始めていた」雛子はかつて上ったその日よりたしかに老いているはずの木の肌を撫でた。
「今思えばね、毎夕眺めていたあの真赤な夕溜まりは、あの朝がそうだったように、毎朝私たちのこの町も染め上げていたのね。湾を挟んで向かい合った山々は朝と夕とで日向と陰とを取り替えて、それがずっとずっと続いてきたのだと思うと、それがつつましい姉妹のような気さえしてこない?」莉佐は黙って湾を眺めていた。薄曇りの下では、向かいの町も、そしておそらくこちらも、灰がかった、後朝のようにつまらない姿をさらし合っているだろう。夏の光をたくわえた枇杷の実の点描も、絶えず湧水に磨かれたあの町も、遠見にはその美くしさを知ることはできない。
 雛子が最後に学校に顔を見せたあの日から、この夏を過ぎれば一年になる。
 彼女はすっかり変わっていた。白肥りしていた身体が纏わせた歳を脱いだかのように細く、幼くなっていた。顔立ちも、それまで抱えていた悩ましさをどこかへ置いてきたのか、ただ、目を合わせるとちらちらとその瞳が消えかかった火のように揺れた。
 つとめて子どもらしくあろうとしていたのだろう。莉佐や、それから省吾に甘えかかるのは、十ばかり離れているとはいえ、それでも気安い二人を、今しがた目の明いた水鳥のように、兄姉のように思っている、思うようにしていたのだろう。そうでないと崩れてしまう何かが、あったに違いない。
「雛子さん」莉佐は言った。
「はい」
「あなたはね、きっとこれから自分のためだけにしばらくの日をやり過ごせばいいのよ」
「自分のため」
「そう、自分のため。これもある意味では酷いことを強いているとは分かっている、分かっているのだけれど、それはもう私たちにはできないことなの」
「私たち?」
「そう。私も、それから省吾も」雛子は黙っていた。莉佐も言葉を切って、その場に俯いていた。
 隣に座る彼女の靴が目に入った。その思わぬ小ささが、過ぎた日を思わせた。弓のごと張りつめたこの小さな足を、彼はどう愛撫したのか。
 洗われたばかりであろうその白さが、莉佐の目にはむしろ痛々しかった。薬漬けのその白は、汚れを落として取り戻した肌色でなく、上塗りにすぎない汚れその色の裏返しで、むしろ自分の穢れをあけすけに示すことになりはしないか。
 思わぬ復讐の形ではあった。目論んでいたわけではなかった。それで雛子を苛もうとも、自らを損なおうとも思っていたわけではなかった。ただ後になってみれば、莉佐がこの雛子という一人の女を抱いたあのひと時、その時だけ、彼女は子どものようなあどけなさで一人を求めることができたのだった。亡き母の面影を追うような後ろ暗さもない。そこにはもはや官能すらない。胎の中でじゃれあっていた双子が、産み落とされた天の下で、未然の生を思い出すように求めあう――ほかの何に紐づくこともないただことりと掌に供された風景としてすら形を得ない想念は、夢の切端とはちがって、放たれた精よりもずっと深く、彼女の内に浸み通っていった。
「私、辞めます」雛子は言った。
「そう」莉佐は彼女の顔を撫で、「それがいいわ」と言った。やはり、その赤い耳は、どこか省吾のそれに似ているような気がしてならなかった。

(完)

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