7/20 禽獣

 作家自ら言うように、嫌悪を催す短篇だった。先に朝食を済ませておいてよかったと思うほどに。して、その感じも久しぶりのものではあった。
 空になったカップを手に室を出た。畳の上に胡坐をかいていたので足が痺れていた。立ち上がって何度か伸びをすると、外の辺の緑のモザイクの光が胸から腹へ、腹から胸へ滑る。雲が出ているが明かるかった。しばらくは、雨が来ても部屋に私がいる。むしろ隣家の庭に出してある洗濯物を気にしながら、流しの前に立った。

 朝食で出た芥が排水溝のネットに掛かっていた。しばらく前に買って野菜室の奥へ置いていたのをやっと片づけられたオレンジの皮が、本来的に汚く、暗くしかありえない穴窪に初夏の明かるさだった。私はそれに、去年から抱えたままずっと書かないでいる女学生を主人公に据えた初夏の小説の書き出しだけが決まっていることや、いつからか身の回りの匂いの放つものをすべて柑橘のそれに揃えていることなどを思い出した。それも蜜柑でなく、もっぱらオレンジと呼ばれるそれを(もっとも、マンダリンがその語源からして西洋のものと言えるかは分からない)。思えばそれまでは悩ましいような花の香にこだわっていた。掌をすり抜ける流れの葉のように――過ぎる季節を引き延ばそうとしてであろう。ただ今は、先刻切ったばかりの果実が古く萎れているだろうと予期したのとは裏腹に濃く甘い「陽の雫」(これも先に書いたものの繰り返しだ)を滴らせたのを、憂いとは無縁な若さの一片として、苦味が出るまで搾りきって、最後の一滴まで身体に取り込もうというのであった。ちょうど、一世紀前の婦人らが輪切りにしたレモンを香水代りに首に擦りつけたバルベックの海岸のように。

 キッチンにはケトルは一つしかないので、カップを温めておくための湯と、実際にコーヒーを淹れるための湯と二度沸かさなくてはならない。もったいないので、温めるための湯は水道水を沸かす。当然、淹れるときにはその湯は流しにあけるが、よく知ったぼこんという音とともに、穴から立ち上るのは、すでに身体に取り込んでもはや行方も分からない実か、あるいは実際に口にしたそれ以上に濃くしたたかな橙の香なのだった。それは、たとえば生きた海老をぐらぐらと沸く鍋に放り込むとさっと紅に染まるように、夕映の海の陽が最期にひときわ激しく燃え墜ちるように――そして私はとうぜん、今かかわりあっている短篇の、次の一句を思い出さずにはいられなかった。

 千花子は若い男に化粧をさせているところだった。
 静かに目を閉じ、こころもち上向いて首を伸ばし、自分を開いてへ任せ切った風に、じっと動かない真白な顔は、まだ脣や眉や瞼が描いてないので、命のない人形のように見えた。まるで死顔のように見えた。


 千花子は十年前の「私」が心中を試みた踊子である。しかし十年も経てば、かつて「私」を悩ませた彼女の「野蛮な頽廃」は救いがたい「俗悪な媚態」と化している。もちろん「私」はそれを見逃さない。

 彼は自分もなにか甘いものを見つけなければと、なぜだか胸苦しくあわてた。すると、一つの文句が浮んで来た。
 ちょうど彼は、十六で死んだ少女の遺稿集を懐に持っていた。少年少女の文章を読むことが、この頃の彼はなにより楽しかった。十六の少女の母は、死顔を化粧してやったらしく、娘の死の日の日記の終りに書いている、その文句は、
「生れて初めて化粧したる顔、花嫁の如し。」


 逃がした水は熱を失い、後戻りのできぬ暗がりへ流れてゆく。その河口で柵のようにいまだ明かるい湯剥けした陽の色の皮の匂いに交じって、微かな腐臭をかぎ取ると、それまで借り物をしてまで遠ざけてきたはずのその臭い―黄泉の霧を思わせる避けがたい気配―にこそ、悩ましく甘えても居たいと、思わず暗い芽が兆した。

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