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コピー機は冬

 コピー機は冬の季語だった。 


 博物館でも美術館でも、どこか室の中でものをするというときにはそれがどれだけ小さく軽いものでも手荷物にあたるものは全部ロッカーに仕舞って、それから行くというのが、長らくの習慣となっている。まさか100円玉が返ってこないことなどはないけれども、仮にそうであったとしてもかまわず預けるほど、僕にとっては欠かせない、欠かせないというよりもそうでないと上手く回りきれる気がしない。

 そんな風だから、ミュージアムをはしごするなど聞くと、よっぽどの健脚だなと思いつつ、少ない休みにあてこんでなるだけ多く数をこなそうというそのいじましさに余暇のなんたるかということを思ったりもする。

 そう。荷物を預けるということでいうと図書館も場合に変わりはない。いや、むしろ図書館――それも研究図書などの多く納まっている閲覧室などにはそもそも大きな手荷物を持ち込むことはできない。はなはだ不便である。しかし、その不便をかこちながら、その実大きなリュックサックから「ほんとうに必要なもの」だけを取り出して透明なビニール袋に入れ、カードをかざして受付を過ぎるとそこが日当たりの悪い(日当たりの良い図書館なんてそんなはずはない)しんみりとした半地下であるにもかかわらずにわかに身体を吹き抜ける風のような解放の感は、だからたんに身軽になったという言葉通りの意味を超えて、今この数時間だけは自分の身体を資料の渉猟だけにあてればよいのだという単純さ——その得がたい贅沢を身体いっぱいに味わっているというのだろう。

 それでも困るのは、コピー機そのものだ。こいつがひどい厄介ものである。コートも預けて能うかぎり身軽な装いで(だいたいボールペンを右のポケット、コピーカード(これも涙ぐましい物語があるのだがきりがないのでやめよう)の入った財布は左の尻ポケット、目当ての文献の情報をまとめたメモ書きは右の尻ポケットに入れることになっている)来たのにもかかわらず、半時間あまりそれに向き合って汗みずくにならなかった試しがない。

 夏はもとより(というか夏に図書館で一生懸命何かコピーを取った覚えがない、遊んでばかりいたのか)、冬がなおひどい。薄手のセーター一枚で行ってもだめだ。どうしてかと思っていたらなんてことはない。みずから転写を強いる旧機の体熱だ。

 もう慣れたからミスプリントはほとんどしなくなった。目次や奥付を撮り忘れることもなくなった。この数年で目に見える成長があったとすればまずこれが挙げられる。だから、決して無駄働きをさせているわけではない。ただ、長い時間ずっと回し続ければおのずと熱はこもる。

 まずは目がやられる。東京タワーのそれを思わせるガラスの床板の下を絶えず往復する白光の帯が、効率を思えばふたをしないで続けざるを得ない作業のうちにねむい目を傷める。途中我慢がならずに顔を背けて目を閉じてはみるが、一瞬間に写経をこなすべく照らされるあまりに明るい光線は、瞼の薄皮などゆうに貫いて鈍い痛みに動悸さえ催す。

 指もへんに疲れる。電子化が進んできたとはいえまだまだ合冊の形で架っているいることのおおい雑誌の論文などは、それが古いものであればあるほどその扱いに気を遣う。今述べたとおり目を傷めないようになるべく早く済ませようと素早く動かさねばならないけれども、その手早さと手荒さをはき違えてはいけない。研究がそうであるように、資料もまた後の世の誰かを思っての営みであれば、たとえそれがどれだけ小さくてもページを破るなど言語道断だ。はっきりと写るように綴目深くまで大胆に、角度がついてへんに巻き込まれないように優しく、黄ばんだ古雑誌の粗く甘い——すられたばかりのコピー用紙に膚を切る心配などあるはずもなくその紙の手ざわりを愉しんでばかりいると、いつの間にか指先はよごれ、限界まで鉄棒にぶら下がった後のように細かくしびれている。すべてことが済んで最後まで品よくと返却用のトラックに背の順に戻した後でも、決してコピーカードを忘れて帰ってはいけない。名前を記したそれをもう何度おいてきたことか。むろん帰ってくるはずがない。地下にもぐってまで収集に励む学徒に恥は無いのかと、研究がそうであるように、後の世のだれかを思う前にまず俺のことを思いやれと地団駄を踏む前に、まず自分の迂闊を恥じてからは、コピーカードの読み取り機の上に財布を置くようにした。毒を食らわば皿までという語が正しいかはともかく、以来忘れることはなくなった。単純なものだ。

 ぬくい紙の束は指を切らないように整えてファイルに突っこみ、ボトルの水を含んだらまさかと思うほどの厚着で、実際には何一つ進んでいない作業になぜか満足を得、さて夕飯はと紙のかすで汚れた指でポケットの中の小銭をいじくりながら館を出る。

 寒い。どうしてこうも寒かったか。冬の日の入りは早い。コピー機の熱が恋しくなるなんてことは、しかしない。まったくない。早く店に入るか、暖かな部屋に帰りたい。あれだけ難儀して入手したはずの論文には、すでに一切の興味を失っている。文字通り熱が醒めている。自分のげんきんさにうんざりするほどの真面目ささえ、ふやけた頭は失っている。どこか店に入ろう、そうしよう。しかし、思い違いをしていた。

 そうだ、このあたりに店はないのだった。僕が今歩いているのはグランド坂でなく、モノレールの高架に沿った未来都市じみた道だ。銀杏の並木と青白い葉のむしろみずみずしい冷たい匂いが、思い違いをさせたのか。僕は疲れている。

 さあ帰ろう、何か温かいものを食べよう。その後は…

 明日に備えて早く寝ようだなんて、今はまだやめておこう。どうせすぐにまたぶりかえす風邪のように働きづめの僕らを襲う想念だ。今は何も考えないでいい。そう、今はそのままの冷たさで。僕のこの個人史的歳時記の見出しは、しかしきっと分かち合えるものなのだろうか。


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