見出し画像

波穂子④



 冷夏は過ぎようとしていた。薄く開いた目が、窓越しにそれを知った。枕に頭をつけたまま手で探ってみるが、広がった自分の髪と冷たいシーツを撫でるだけだった。波穂子は、そこでやっと携帯を東京に忘れてきたことを思い出し、昨日の乗り気を恨んだ。身体を起し、血の気の上がってこない頭を何度か叩きながらクローゼットの中に眠っていた型落ちのPCを引っ張り出してきた。

 ひいきにしているラジオの今週分をまだ聞けておらず、しかし合宿が終わって東京へ帰るのを待ってはいられない。まるで自分の声であるかのようにさわりなく耳に入る二人の声の大きさをベッドに寝転んだ状態で確かめ、何度か微調整をしてからやっと落ちつくと、部屋の灯りはつけないまま、まだ青みの濃い朝の日がカーテンの裾につられて壁に微妙な陰影をつけるのをただ眺めていた。

 いつかもこうしていたことがあった。それもかなり長い間。その時はたしか、家族の声さえ疎ましかった。もちろん、今の波穂子はまたそれが思春期のうちに現れる独善的な傾向であったのだと、そう軽く振り返ることのできる時期に差し掛かっていた。波穂子の若さは、青い春を抜け、緑色の季節の雨に煙っているようだった。放送を聞き逃したことはない。海外への研修旅行も、YouTubeを通してその週のうちに追い付いた。それが、今は霧がかってはっきりとは思い出せない春と緑の季節とをまるで裂けかかった生木のしなった繊維のようにかろうじて連続した自分というものを確かめた。波穂子がこうしてラジオについて振り返るときに辿る道筋はおよそ次のようなものだった。当時の、そして今の波穂子にとっては、自分とはまったく関わり合いのないスタジオでやり取りされる言葉たちをただ傍で聞いているというその「隔たり方」が心地よかったのだろう。彼女は荒い手つきながら自分の過去を腑分けしてみた。ふと集中が切れると冷たい水の流れに掴みそこねた木の葉のようにするりと耳を抜けていってしまう言葉たちは、古い陶器たちを金で継ぐようにぴったりと鎖した波穂子の部屋のドアを叩くことはしなかった。瀬を流れる水にそれを圧し破る力はない。とはいえ、だからといってその弱く小さな言葉たちは、彼女の青く浮腫んだ顔に戸惑い、それを拒もうともしなかった。もちろんそれは彼女のことなど彼らが知るよしもないからだが、彼女にとってはそれが大切なのではない。固く締め切ってあるいは金で継いでもなお扉そのものを漆喰で塗り固め壁にはしてしまわなかった部屋――ここまでと引いておいた身勝手な禁足地の境界のすぐ外側で、彼らは彼女の身辺の一切にかかわらず気ままな運行を続けていた。いや、続けてくれていた。作為がどうと拘るつもりはない。事実としてそうあってくれたことが、何よりも有難かった。関わる訳ではない。しかし拒む訳でもない。蝶結びにしたリボンのように、つながっているようでその実互いそれぞれの輪を描いただけの関係とも呼べないこの関係が、扉に背をもたせてせせらぎを聞くようなそのひと時が、激しく人を求めながら素直にそれを認めることのできない彼女の臆病な不遜さに寄り添うともなく寄り添ってきた。それを「支え」と呼んでしまうような鈍い波穂子ではなかったが、あえて言えば既にそれほど彼女の暮らしに深く根づきぼろぼろと崩れそうな粘土質の自己をつなぎとめるかすがいのような声だったのだと、そう振り返ることが今ではできる。

 携帯がなく手持無沙汰になった波穂子は、ただラジオにおとなしく耳を傾けるでもなく、何か手近なところに活字がないかと物色し始めた。昨晩開きかけたまま止してしまった国語の教科書の背表紙が机に並んだ本の列からはみ出しているのが目に留まった。波穂子はそれを抜き取ると、長いこと使っていた勉強机にいつの間にかついた傷を汚らしく一瞥し、本をベッドに投げ出し自分も跳び乗った。
 波穂子がラジオを聞くとき、こうしてたいして中身のない言葉の羅列を目で追ったり、あるいは携帯が手元にあるときでさえクラウドに残っている中学生以来の写真を見返したり欠かさず付けている食事のメモを遡ったりと、出来るかぎり味の薄い「ながら仕事」をあてがうのが癖になっていた。携帯を忘れてくる鈍さはあっても、ラジオから聞こえる声にだけ意識を集中させまんじりともせずにベッドに寝転んでいられる呑気さは、彼女にはない。

 目次を開くと、教材の題をさらうだけで当時の教室の様子が目に浮かんだ。どこか湿り気を含んだえづきを催す制汗剤の匂い、菓子パンの包装材や飲料の紙パックに実質以上にかさばった内袋をかけないためにべったりと汁のこびりついたゴミ箱、過剰なまでに装飾具を嫌い髪を束ねるのに輪ゴムを使うことを誇る女教師の寝足りない朝の頭痛に響く甲高い声、体操着の腕を枕に貪る午睡の甘やかさ――それらが乾いた紙の手触りに導かれるようにみずみずしく彼女の口の中を満たした。ぱらぱらと頁をめくると、インクの匂いが挟まれていた行き遅れの蝶のように鼻先を掠め、黄色や桃色のラインが次々と目に花やいだ。わりに熱心に取り組んでいたのだなと、波穂子はまるで後ろ暗い人のような笑みを浮かべた。当時本当によく読んでいたのは教科書ではなくて便覧だったと、久しく口にする単語の響きさえ懐かしく思われた矢先、頁を手繰る指があるところに止まった。

「この作品は『下人の行方は誰も知らない。』までで終わっているが、下人の心情や描写に注目をしながらこの続きを書いてみなさい。」あまりに有名なその末尾の改稿をめぐって、大学に入ってからも何度か授業で取り上げられることがあったが、その時はその時で素朴に新しい知識として呑み込んだはずだった。これほど早く出会っていたのか。ところが、実際にそれを書いた覚えはなかった。波穂子はこのとき、それが何か切実な問題に思えた。忘れてはならないことのような気がした。こめかみに手をあて、今しがた教科書を開いた際に湧いた不均質だがゆたかなイメージの流れを遡っていくと、どうやらそれらしい断片を掴むことができた。

 それは次のような光景だった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?