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波穂子⑤

 …担当は、主任の大久保ではなかったろうか。素早く目次に戻り他の題を目でさらうと、たしかに彼で間違いなかった。夏休みに入るところでクラスには報せずに産休を取った山崎先生に代わったのだ――一度引き上げた記憶は鈴なりに他の記憶の枝までも揺さぶる。そう、大久保は、この末尾にまつわる改稿の問題について指摘をした後、「続きを書く」というワークから飛翔して、「身の回りの物語の続きを創造して書いてみましょう」と明らかに鼻の穴を膨らませて、そう宿題を課したのだ。波穂子の頭には、狭い教室とその片隅で机に突っ伏した自分の姿がありありと浮かんだ。

 大柄な男だった。病的な作家というよりは平家物語の住人らしきすべてが堅牢に造られたその顔立ち――黒い毛のびっしり生えた腕をシャツを捲り上げ黒板を叩くようにして火花のごと欠片を散らしながら書き進めるチョークの音と、古代の楔形文字のようなその板書がとくに印象に残っていた。「物語であればどんなものでもかまわない。小説、映画、演劇、ドラマ、マンガ、アニメ、とにかく気になったストーリーの『その先』を考えて文章にしてくること」大久保の言葉にやや遅れてすばやく顔を上げた波穂子の目には刹那、光が走った。一見それはひらめきの喜びに捉えられたことだろう、むろん教師もそのように好意的に理解した。しかし、実際に彼女の胸中に燃えた炎は、そのような幼い創作の目覚めではなく、ある復讐心にも似た類の炎のような衝動だった。

 彼女は一晩でその「続き」を書き終えた。「半四郎落し伝説」のその続き――課題を言い渡されたそのときからそう決めていた。幼い頃からよく知っている断崖にまつわる悲恋。はじめて知ったときには少女らしくただただ悲しい愛の物語として理解をし、「およし」の涙から咲いたというイソギクという花の可憐さを思い描いたものだった。それが、記憶を浚っていく時間の流れにもかかわらずまるで水面に頭を出した巌に笹の葉がかかるように彼女の意識の隅にへばりついていたのは、不思議といえば不思議なことだった。しかし、なお不思議なのは、彼女が幼い頃伝説から受けた感銘というものが彼女の背が伸びるにつれて若木のように次第にその表皮の色を変えていったことだった。あるいはそれは、縁起の良い魚たちのように、感動から違和感、違和感から憎悪へとその名前を挿げ替えていった。自分の不手際から命を落した半四郎、それを悲しむおよし、そこまでは良いだろう。しかし、どうして彼女はその後も泣き続けていなければならなかったのだろうか。振りまいた涙が岩肌にしがみつくつつましげな花群となるまで、私たちはおよしの涙に無私の愛を見出し、ただ健気なものとして「可愛そう」といいながら、陰ではそのようなおよしの涙を求めているのではないか。まるで天井のない檻に飼われる傷ついた隼を見守るように、私たちはおよしを憐れんでいるのではないか。例えば彼女がその後のやもめ暮らしに耐えかね後夫をもったとしたら、そして不幸に死んだ前夫との日々をしだいに忘れていったとしたら。私たちはきっとそれを物語として読まなかったろうし、イソギクの美しさもまた、彼女の涙には喩えられなかったはずだった。物語はつねに人間というものを軽く見すぎてはいまいか。波穂子の胸に去来したのはこのような思いだった。

 波穂子の書いた「続き」は次のようなものだった。

「伴侶を喪ったおよしは悲しみにくれるが、半四郎の記憶がしだいに遠のいていくにつれ、彼女の胸にはそれまでの切るような痛みとは別の行き場のない焦りがたちこめる。はじめは彼のことを思い出さないようにと彼の仕事道具や服を箪笥に仕舞い彼の影を視界から追いやっていたのが、今ではそれを取り出して染み付いた匂いを嗅いででなければはっきりとした面影をたどることができない。半四郎と喧嘩をした。激しく罵られたおよしは気が動転して竈の火に指を焦がした。半四郎の海に落ちる前の晩のことだった。それからおよしはその晩に負った火傷を見るたびに彼のことを思った。しかしその傷も次第に癒えてしまう…時は彼女の周りの一切から半四郎の影を奪い去っていくのだった。しばらくして、およしはもう半四郎のために泣けなくなった。それが彼女にもたらされる遠い幸福の兆しに他ならなかった。そして、穏やかな風の吹くある春の日、およしの許を一人の青年が訪ねてきた。彼は彼女のやもめ暮らしのことを浜の村人から知り、崖を登ってきたのだった。青年が彼女に差し出したその手には、ささやかなイソギクの束が揺れていた…」

 朝方、それまでつかれたようにペンを走らせ続けた波穂子は、ほとんど殴り書きに近い自分の原稿用紙をさらいながら、それまで自分の胸に立ち込めていた霧が、やがて昇る朝の日差しにみるみると消え去ってしまうことを予覚した。
 その時、波穂子はふいにうそ寒さを覚えた。腕に触れると粟立っていた。彼女にはその理由がはっきりと分かっていた。

 違う、消え去ってなどいない。

 それから私はどうした。どうしたのだ。一晩で書き上げた原稿をもって、朝一番に大久保のもとへ届けに行った。寝ぼけた顔の彼は期限より早く持ってきた私におかしな顔をして、ただ「ごくろうさん」と言うだけだった。それだけならまだよかった。そのときの私でさえ、伝説の焼き直しとその動機が私怨に近いものであることぐらいは分かっていたのだから。二週間後、全員の課題を見終わった大久保が「最優秀賞」として作者を伏せたまま皆に配って回った作品の題は、「半四郎伝説のその続き」だった。

 ざわつきの中目を輝かせて読み始めた波穂子はすぐに異変に気がついた。これは私のではない。この教室の中に、私ともう一人同じ伝説に材を取った生徒がいることを知った。しかし波穂子は、ここで悔しさや怒りを感じることはなかった。むしろ、ふつふつと沸く静かな喜びを感じた。これを書いた彼あるいは彼女は、およしの続きをどう描いたろう?波穂子は、一人の人間としてのおよしのもうひとつの物語の続きを追おうとした。
「最優秀賞」のあらましは次のようなものだった。

「半四郎はじつはあの日誤って落ちたのではなかった。なかなか子供のできないおよしを捨てる口実に、自分は崖から落ちたと装って、峠を越え、はるか西、山間のとある温泉場へと逃げていったのだった。数年後、はじめは宿の使い走りとして仕事に励んでいた半四郎は、それまで漁師として生きてきた気質が抜けず、また浜村では出会うことすらなかった温泉場の夜を知ったがためにすぐに身持ちを悪くし、そのうち逃げるように温泉場を飛び出した。このとき半四郎はふとおよしのことを思い出した。それまで省みてもこなかった健気な妻のことが、彼には途端愛おしいものとして映り始めた。およしはきっと今も俺のためを思って泣いている。俺の帰る場所はあの家しかない。俺を思い出させるありとあらゆるもの、自分の遺してきた気配にいつまでも囚われ夜毎に袖をぬらす妻のことを思うたびに半四郎の目にも涙が浮かぶのだった。失って初めて気がつくおよしの大切さに半四郎は涙を流した。その涙は、およしが自分のことを思って泣く涙だった。半四郎はおよしのひとり暮らす家に戻った。これまでのことを包み隠さず話し、彼女の前に手をついて謝った。およしはまた、そうするのがせめてもの義務であるかのように彼の弱さと卑怯を難じながら、それでもやはり半四郎の罪を赦し、傷を分かち合った二人に静かな幸せが戻った…」

 思いの強さはそれが長く続くこと、永く尾を引くことを意味しない。しかし、その事実はまた思いが雨溜まりのようにひとりでに蒸発してしまうことを意味するのでもない。電力が熱や運動に変換されながら総体としての力量を保つように、胸に強く刻んだ思いは他の何かしらに形を変えてまだ彼女のどこかに燻っていた。

 波穂子は藍のことを思い出した。かつて私が抱えた行き場のない怒りは、一体何に換わり、どうしてどこに放たれたのだろう。あの日およしに寄せた深い同情と回復の物語を、自分はどう歩んできたろう。波穂子は、あの部屋で一人泣く藍の姿を浮かべ、こみ上げる甘い涙を必死にこらえた。


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