見出し画像

緑の少女⑨

 その晩イチイに浅香の話をした。もちろんチャットでだ。基本的に彼女の返信はそっけなくて、それが物足りないこともないと言ったら強がりになるけど、しつこく食い下がるダサい男になることの方がずっと恥ずかしい。
《浅香って、同じクラスだよね?》
《あ、あの背の高い男子だよね》
《低くて悪かったな》
《何が?》
《何でもない》
《浅香君、知ってるよ。そんなに話したことないけど》イチイの返信はいつも僕よりも遅い、こんな時間なのに。僕はチャットの画面を開いたり閉じたり、携帯を机に伏せてみたりと、手から離さないまま会話の先を待つしかなかった。
《そいつとバンド組むことにしたんだ。星も入れて三人で》今こそイチイをバンドに誘おうと思った。彼女はドラムを叩けるし、何よりもこれなら練習の際に顔を合わせることができる。我ながら名案だ。自分を中心にして回転し始める人間関係と取り戻せるかもしれないもうひとつの関係と、あとは何というか、これから始まる夏休みへの理由ない期待。嬉しさに脳が誤作動を起こして胸が痛くなると、きまってあの日のセリフが胸を突いた。気を紛らわすように貧乏ゆすりの速度を上げた。イチイの返信が遅い。唇を血が滲むほど噛んだ僕は窓を開けた。隣の庭に猫の目が二つ黄色く光っていて、そいつと目が合った。ここで逸らしてはいけないとむきになり、じっと目をこらしたまましばらくあたりに耳を澄ませていた。小さな蛾が部屋の明かりに寄せられてふらふらとこちらへ飛んでくる。と、いきなり顔面に羽が触れた。ほんの少し舞った鱗粉が目に入る。うわあと情けない声を上げた僕が網戸を閉じる音に猫も飛び上がって行ってしまった。
 明るい部屋へ戻り再びベッドにかけるとちょうど返信が来ていたのか暗い画面に緑の吹き出しが浮かんでいた。詳しい内容には目を通さずに手の届かない所へ置いて布団をかぶる。三、四分待てば良いだろうか、待ちきれない時間をつぶすために結局携帯を手にした。チャットは開かずにタイムラインを覗く。いつものあいつらも名前とアイコンだけ知っている同級生も、作家になった途端ひげを伸ばし始めた芸人も胃痛がひどいといって逃げていった総理大臣も、それぞれのつぶやきは優劣も秩序もなく更新時間順に縦に並んで、過ぎては戻らない文字通りの「タイムライン」だ。このタイムラインを覗けば、僕はいつでも世界中と繋がれる。それは比喩じゃなくて本当のことだ。自分が幼いころに比べてテレビ番組がつまらなくなったのは、きっとここ最近の番組が掲示板ノリの再構成だからだ。今使っているこのアカウントもひょっとしたら自分が死ぬまで残り続けるのだから、アカウントでの発言も分けなくちゃいけない。一階のリビングからモノマネ番組を見ているらしい父と母の笑い声が聞こえた。
《へえ、でもドラマーいなきゃ始まらないんじゃない?》待ちに待っていたその言葉が返ってきた。慌てて両方の親指で返事を打ち込む。
《そうそう、だからさ、よかったらイチイもどうかなって。ほら、前言ってたじゃん》無理強いにならないように気を遣った。
《やりたい!》一瞬で返事が返ってきたので、思わず既読をつけてしまった。正直彼女がこんなに食いつくとは思っていなかったけど、嬉しくないはずはない。
《オッケー、二人にも伝えとく》今度も返事がすぐに返ってきた。
《でも最初は何練習するんだろう。私はたぶん大丈夫だけど、あんまり難しいと石見君達キビしいでしょ》
《なんだよ偉そうに》、(笑)をつけるのを忘れたまま送信してしまってひどく慌てる。
《だって経験一番あるの私じゃん》
《まあね(笑)》
《ねえ、貸してあげた本読んだ?》
《ごめん、まだ》また返信が遅くなった。その小説は途中で放り投げてしまっていた。主人公の言うことも作家の書き方もひどく難しくて、文字の列を追うので精一杯だった。お世辞にも面白いとは言えなかったが、そんなことをイチイに言えはしなかった。もっと賢くなって、何ならイチイよりも文学マニアになって、『舞姫』の主人公にケチをつけながら夜を明かすような未来の計画を立てていた。岩波文庫の棚の前にしゃがんだイチイの姿を目に浮かべて、なんだか彼女の背に手は届かないような気がしたし、だからこそそんなイチイのカレシに戻れたのなら、自分はサブカルかつ知的な、周りとは一味も二味も違う高校生だ。彼女からの返信を待っているうちに眠りに落ちた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?