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緑の少女⑥

「そこ。北口出たらアーチが見えるでしょ」
「アーチ?ああ」花壇の縁に腰掛けた僕は電話を切り、雑踏の向こうの浅香に手を振った。怪訝な顔で耳から携帯を離した彼も、すぐにこちらに気づいて手をあげる。
「久しぶり」
「一週間ぶりだろ」いつものやりとりに低く笑う。服に頓着のない彼はいつものワイシャツにスキニー姿だったが、スタイルが良いのでそれでも様になっていた。
「その丸メガネはいつになったら取るんだよ」
「いいだろこれ。それにほら、チェック柄」
「ダサ理系男子のイメージに自分から寄せていってるわけ」
「そうそう」手のひらを空にかざし、傘を閉じた。雨上がりは陽が出ていない割に空がへんに明るく、街全体がしっとりと鈍く輝いているようだった。賑やかな百貨店の通りを逸れると幅の広い遊歩道に出る。この一帯はモノレールの橋桁の真下にあって高いビルが建たないために、ベンチと植え込みとジョナサンと、僕らが向かっている小さな映画館があるだけだった。僕の生まれ育ったこの街のなかで一番素敵で平和な道だった。
「知ってる?あの空き地、何かの建設予定地らしいんだけど、ヤギがいるんだよ」
「はあ?ニュージーランドでもあるまいし」
「いや本当なんだよ、市の何かのキャンペーンで。雑草も食べてくれるし子供たちも喜ぶし、一石二鳥っていうの。結構好評らしいよ」
「田舎か」
「のどかって言え」鼻で笑ったくせに浅香は金網に近づいて行き、餌だと思って寄ってきた一匹に指を思いきり噛みつかれた。
「痛って」
「バチが当たったんだ」
「誰のだよ」
「環境課長…?」子供を呼び寄せお茶をやる母親が、笑うとも驚くともない顔でこちらを見ていた。
「まだチケット買ってないんだからさ、早く行かなくちゃ」文句を垂れる浅香を連れてシネマへ向かった。
最後列で観た二時間弱の洋画は退屈だった。シリーズの三作目は何故例外なくこけてしまうのかとか、ポップコーンの語感と食感が完全に一致しているのはなぜかとかを考えていたら、もうエンドロールが流れ始めていて、トイレトイレとつぶやきながら二人で席を立った。エンドロールぐらい目を通しておけばと自省したのはベッドに入ってからのことだった。正方形の建物にはシアターの他に小さなビストロが入っていて、そこのキッシュがなかなか美味しいらしい。
「キッシュってなんだろう」
「知らない」入口のメニューから目を離し、石畳の道を望むカウンター席についた。横文字ばかりのメニューを解読するのに勉強し直した英語が少し役立ったことが驚きだった。僕の前にはアペモーニとカプレーゼサラダ、浅香の前にはアマレットミルクとチーズケーキ。不親切な筆記体を読めたものばかり選んでいたら名物のことを忘れていた。
「甘すぎない?その組合せ」いつものことでもやっぱり気になってしまう。
「良いだろ。科学者には糖分が欠かせないんだ」院生にもなって学生会館に入り浸っている浅香の台詞とは思えなかった。浅香は細いフォークをつまみケーキを口に運ぶ。
「俺たちだけモラトリアム延長してもらったみたいだよな。何だかんだ皆もう就職しちゃってさ」
「モラトリアムなんて言葉よく知ってたな」
「馬鹿にすんなよ、こっちは一年浪人してんだぞ」
「理系だろ、あとフォークで人を指すな」
「この四年間、いや、高校も入れたら七年間?旅行はたくさん行ったけど、真剣な話なんてしたことないんじゃない?」
「前も言った気がするけど、それが良かったんでしょ。今日はへんに真面目だね」
「いつもと比べて店がちょっとお洒落すぎてさ」
「北口のサイゼリヤに謝れ」
「そういえばお前覚えてる?高三のとき、制服を着てここに映画を観に来たことがあったろ」
「あの、最近やっと地上波で解禁されたやつ。思い出してきた思い出してきた、あの日はめちゃくちゃに暑かったんだ」
「そう、お前はあの日夏期講習をサボって」
「課題は終わらせてたけどね」
「あのときこの店オープンしたばっかりだったんだよ」
「よくそんなこと覚えてるね」
「それでさ、あのときは(いつかこんな店で石見と酒でも飲むことになるんだろうか)ってワクワクしてたんだよな」浅香は心持ち遠い目をした。
「で、どうなのよ。達成した気分は?」
「正直わからん」グラスを傾け、カウンターに乗せた拳を軽く握って続けた。
「けどさ、いつからか、楽しい時間を過ごしている間にも(これがいつかかけがえのない思い出になる)って解ってやるようになったでしょ?俺たち。よく言うじゃん。人間が最期に望むのはお金なんかじゃないから、後悔の無いようにやりたいことは全部やっておくべきだって。どっかの名言を信じちゃって、俺もお前もさ」半ば意地になって聞き流そうとしたが、実際彼の考えはよくよく当たっていたのかもしれない。
「けど、あのときは違った。嫌で嫌で仕方なかった時間が、今よけい大切なものみたいに思い出されるんだよ。わかってる、思い出補正って言うんだろこういうの。でも調子の良い話だよね、あんなことがあって、あの頃はそれどころじゃなかったのに。渦中にいるときは楽しさになんて何も気づかなかったくせに。こうやって振り返れるのもさ、俺らきっとお利口になっちゃったんだろうな。ちょっと汚くなったみたいで、いやだな」
「賢くなったなら願ったり叶ったりだよ」この時、僕はさすがにおどかしてみるしかなかったのだろう。それから、話が途切れるのを避けるように付け足した。
「今度は外国に行こう」
「外国?…けど、いいな。なら良いカメラ買ってさ、夏ならあいつらも休み取れたりするかな」
「大丈夫だよきっと。あ、パスポート取った?」
「修学旅行以来かも」
「なら切れてるよ。二十歳以上なら十年で取れるから、そうしよう」夏の初め頃になれば誰もが味わうことになる爽やかなその熱気に、ひょんなことから空しさに襲われた胸のうちはすぐに満たされていった。僕らが今そしてこれから味わう幸福は、こうやって今日みたいに形ともいえない淡い形をしているのかもしれない。発想を留めておくためにポケットに手を伸ばし、やっぱりやめた。
「今日も樹紗さん家に居るの?」
「当たり前でしょ同棲してるんだから」
「俺が遊びにいけないじゃん」
「うるさい。てかお前のための部屋じゃないし」
「俺、お姉ちゃんと仲悪いんだよ、あの人全然マニアックじゃないからさ。ゴシップとか大好きなわけ、もう二十五なのに」
「いいじゃん趣味なんだから。それともどうする、朝まで飲む?」
「いいや、やめとくよ。明日朝から実験なんだ」
「ご苦労さまです」酔ったらすぐ顔に出る浅香は惚けたように通りを眺めていた。右腕にはめた時計を見ると、最終電車までにはまだ少し時間があった。
「出よっか、少し歩きたい」
「うん」今週はなんとなく僕が奢る番だった。
 外へ出るとやはり蒸し暑かったけれど、それでも期待していたほどの濃い香りはまだ無く、週末のざわめきは風に乗せられて遠く聞こえてくる。
「コンビニでも寄る?」
「うん」自分が勤めているのとは違うチェーン店であったことに安心した僕はゴミ箱の前で浅香を待った。
「聞いて、俺年齢確認されちゃったよ」
「嘘、もう二十三だけど」
「なんか自信ついたわ」
「うるさい」フィルターを噛んだ浅香は苦い顔をした。
「一本いる?」
「だからいらないって」
「つれないな」
「てか、歩きながらはやめろよ」ごめん、浅香は火をつけたばかりのそれを携帯灰皿にねじこんだ。ここは禁煙、吸いがらのポイ捨て禁止。破れかけの貼り紙を見て、片方は守れている彼がどうか許されることを願い、その許しを誰が与えるものなのかはわからなかった。二人で道の端に立ってみれば、綺麗だと思っていた石畳には黒いしみがいくつも落ちている。
「彼女と別れた」
「ついにか」
「本当なんだって」僕は少し黙った。
「いつ?」
「先週末」改めて二本目をくわえ浅香は続ける。
「最後に出掛けてきたんだ。普通に昼を食べて、いつもみたいに散歩をして、調べておいた店で話をした。少し高いカフェで、周りはうるさいばばあばっかだった」オレンジの紙箱に空いた隙間にライターをねじ込み、唾を飲む度に上下する彼のその喉仏を見ながら、浅香は今日この話をするために僕を呼んだのだと気がついた。僕はどこに視線を置いておけばいいのか分からず、話の深刻さよりもその不便さに困ってしまった。
「今になって痛むわけじゃないけど、自惚れているわけじゃなくて、たぶん今あの子は独りで泣いているから、そう思うと俺はどうしても堪らなくなる。よく行った蕎麦屋の前を通る度に、今まであぐらをかいて過ごしてきた時間が、もしかしたら幸せだったのかもしれない、って思うようになった」浅香が何を言いたいのか分からなかった。分からない、というよりは想像力が追い付かない、という方が近いかもしれない。例えば僕が今日帰って彼女が部屋に居なかったら、いつまでも表へ出てゆこうとはしないまま、ぜいたくともいえる後衛での生活に浸る僕に、ついに愛想を尽かして出ていってしまったら、どうもそんなことはありそうもなかった。僕が樹紗との生活にあぐらをかいているつもりはなかった。一緒にやり過ごしてきた季節がいくつになるのかを数え、まさか簡単に離れられる訳がないと思った。それでいて、失恋を素直に悲しめる彼の方がどうも羨ましくてならなかった。
「浅香、酔ったね」
「今日は、かもしれない」
「帰ろう。西国分寺まで一緒だ」浅香のリュックサックには僕と違って中身がぎっしり詰まっている。何を持ち歩いているのだろう。こんなに長いこと友達でいても分からない事柄というものは現にこうしてしっかりと存在していて、それで僕も酔ったふりをしてふらふらと歩いた。
 遅い時間のわりに混雑した武蔵野線の窓越しに、彼の後ろ姿が薄く濁って映る。優先席にかけた浅香がこちらを向かずにただ手だけをゆらゆら振っていた。
 電車が行ってしまってからも、僕はしばらくそのホームにいた。何となく自販機の前に立ってみると、横に備え付けられたくずかごはペットボトルでもカンでもないごみでいっぱいになっている。レモンティーを二本買った。彼女はもう寝てしまっただろうか。帰るまでにはぬるくなってしまっていることに気がついて、一本だけふたを開けた。春先に発売された彼女の新しいお気に入りは、前に一口もらったときよりも酸っぱい気がした。

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