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ふた旅 2/3

天城

 峻しい道は鋏のように杉の密林を割いてゆく。車はもうもうと白い靄を被りながら、非常な速度でその切っ先をひた走る。セダンがいよいよ天城の峠にさしかかったというところで、足の長い雨に追い付かればたばたと屋根を叩く音が聞こえたのは、しかし一瞬のことに過ぎなかった。トンネルに入った。雨音は背後に、私たちはその音をもはや古いものとしてぐんぐんと離してゆく。その音のことなど、二度と思い出すことはない。
「なかなか強くなってきた」
「落ち着かないね」
「車に乗ってからで良かったわ」たしかに、これまでまともに降られてはいなかった。侑里がその意味まで含めたのかは分からなかった。雨粒を眺め匂っているだけで、どうも濡れた気になっていたことに気づいた。
「わ、トラック」いやな暗さだった。すれ違うときにしぜん肩が上がる。荷台に携えて来た水粒がすれ違いざまにその肩に飛びかかる。タイヤはしばしば黄線を踏み、そのたびに不吉な音を立てた。助手席の私も深く背をもたすことはできず、吹き込まないよう少しだけ窓を下ろし、その隙間からサイドミラーの水滴をティッシュペーパーで拭った。が、開けた途端飛び込んでくる怪鳥の啼くような風にあわてて、それを戻した。置き場を求められずに掌で温めることしかできなかった紙は、ぐずぐずに溶けかかっていた。それが、死んだ海月の殻のようだった。私は、苛まれたような気分に浸りながら、報いのように、汚く濡れたその塊を掌で絞っては吸わせてを繰り返していた。きゃっ、と洩れた高い声がうなじにかかった。背もたれと窓の隙間から後ろを覗くと、侑里は手元の小さな画面に目を落とし、薄い唇をかみしめていた。その唇が白く乾いているのに瞳ばかり潤んで緑っぽい光を映すその取り合わせが、いたましく見えた。
「お腹は?」
「いや、まだ空いてない」概して川に沿って下って来た道を嵯峨沢の橋で左岸へ渡る。人家に交じって山葵を売る店が、目に留まるほどの関心は与えずに過ぎてゆく。私はふと、今車の外を流れている風の冷たさを知りたくなった。怪鳥の鳴き声を思い出して、その気をなだめるように前方に小さく見えて来た原色の看板をはやし立てた。
     飲み物を買って車へ戻った。列が途切れるのをじれったく待って道に合流したところで、傘を買い忘れたと侑里が大きな声を上げた。が、そのすぐ後、朱花が返すのに先んじてより大きな声で大丈夫と制すと、伸びあがった私の首筋は甲斐なく、ハンドルを握る朱花のかち合わない眼差しの先を辿る。すぐ前を走るトレーラーのせいで視界が遮られていた。道の先では何が私たちを待っているのか。
    朱花が言葉少なになるのも当然のことだった。ただ、その静けさへの滑り込み方は、どこか夜半の雪が音もなく降り已むあの雲の切れ間の感じによく似ていた。六花がほどけぬままそのままの形に軽く重なっていく月陰の箱庭。しかし、実際は発すべき言葉が見当たらないのではなくて、上りかかった言葉をいらぬ気負いから発さないままあるいは私の見ない間に何度か音を伴わずに口を開けるなどということもあったのだろう。だから、雪が降り已むというよりは、杉林の下に伏流を張るような黙り方だったと、今はそう喩え直した方がよい。私は半ば意地になっているはずの朱花との我慢比べの先、流れがいずれか顔を現すことを疑わずに、運転席の窓越しに盛んな音を立てているはずの川面を見越した。雨のしるしは少し後れて現れる。水の色がしだいに濁り始めていた。

 傘を持って車を出た。低い座席から起き上がるのに、濡れた白線に下した傘の柄を杖代わりにした。荷は無いので身軽なものを、沈み込んだ身体を起すのによほど重みをかけたから、アルミの骨が少し撓んだ。そういえば、古いと見えたセダンにBluetoothが付いていたのは、あの受付のおかげだった。ミツメが聴けていたのは彼のおかげだった。車種は別として、三人で割れば上乗せの保険も気にかからない。これまでもずっとそうしてきたのだった。朱花は何を入れたのか白いポリ袋を鞄の代わりにぶら下げて、懐手にキーを鳴らした。点滅する音に暈がかかるほど、霧が濃く出ていた。
    滝へ下りる道に三人が並ぶ幅はない。行軍の形を取って前後に声を投げあった。もとは藪の繁る斜面であったところを切り拓いて、むき出しの赤土に二本の杭と階代わりの丸太を渡しただけの、簡単な段をうねうねと通したのを、不ぞろいな幅に知らず膝を痛めながらあえて跳ねるように踏みしめていく。広がってきた髪の揺れるのに合わせて、返す声を張る。すれ違う人もなかった。三人ともマスクを顎まで下げていた。日が出ていないとはいえ、蒸すので息が詰まる。
    ときどき、この肌に黴の生えそうな陽気は、はたして肺や喉の病気にはどうだろうかと考えてみることがある。乾いた冬の朝には、下隅に英字幕のぼかされた山火事の画とともにもっぱら乾燥の恐ろしさを説きながら、いくら暑いとはいえ喉を労わるように纏いつくこの湿気の有難さには放送で触れる暇はないのか。それとも、私たちの知る潤いと湿り気とは、似て非なるものなのか。私は左右にびっしりと繁った藪の隙間から湧き立つ匂いとともに、水気に満ち満ちた空気をあえて口から飲み込み、噛みしめるふりをしてみた。

    滝壺は、それを安全な岸から見上げる私たちには、在り処は推せても直にその深さまで確かめることはできない。言うまでもないことだ。飛び込んでみたい気もするが、確かめなくても既に分かっていることだからと、疑いの芽はすぐに萎える。何より、今日はそれほど暑い日でもない。
    道を下りた先はそのまま川面に浮かぶ桟橋につながっている。橋はあたかも目の字を模したように、滝そのものに近い奥の辺を通ってぐるりと一周できるようになっている。その橋に囲われたかりそめの水槽には、鮎が活けられていて、時折小さな三日月の尾を水面に叩く音がする。夏のあいだは決まった日に放流して観光客たちに釣りをさせるそうだ。滝から絶えず流れが寄せるので、崖下の暗い水面にはしきりに波紋が立ち、波が白くいくつも小さな山をなしたかと思うとすぐに崩れる。魚たちは、あたかもそのようにして崩れ水底に潜った光そのものから生まれ出たように、せわしない池の中層に青い背を走らせている。
    幾たりかの先客も見えた、奥の角には滝の名が記された看板も立ててあって、絶えず飛沫を被るので新しい緑の苔がびっしりと生えていた。肩を寄せ合うほど近い三人が先刻に続いて大声を張るのは、水の落ちる音があまりにも大きいからだ。滝の傍の釣り堀を先ほどは変にも思ったが、喩えてみればそれほどおかしくもないかもしれない。

    いつか読んで知ったアイヌの信仰の一端が、画として浮かんでいた。雲の上に住まうカムイは、つれづれを慰めようと自ら土を捏ねた愚かな人間たちを雲の上から眺めている。そうして彼らのいつまでも変り映えのない営みを眺めているが、ときに彼等の水源となる山の上に雲を駆り、気まぐれに手元の袋の口を開けてやる。彼らの糧となるマスやサケなどの魚をどぼどぼと川に注ぎ落とすのだ。鹿もまた魚と同じようにカムイの腰巾着から落とされるそうだが、それらとクマやオオカミ、フクロウといった眷族たちとの間にどれほどの隔たりがあるのかまでは分からない。
    それほどのなまかじりでも、伝聞は目の前の滝の音にまさに崖の上から身投げしてそれぞれ腹からぶちあたって潜る魚たちに太古の感じを添えた。もちろん意地悪いカムイではないから腹の下に響くその音にきりもない。水気を含んで束になった髪がふいに持ち上がって、揃って乱れだす。崖下に風が抜けるはずはないからこれも無論あの滝がよこすものだ。私が呆けた口を開け放しにして時折飛び込んでくる飛沫の冷たさを味わっていると、侑里は改まった声色で呼びかけた。
「伊豆半島には台風が近づいてきているようです」朱花は橋の欄干に片手をもたせ身体を滝の方へよじると、軽く握った手を口の前に掲げる。
「現場の朱花さん?」
「はい!こちら朱花です!先刻上陸した台風九号は依然強い勢力を維持したまま伊豆半島を縦断しています!雨風ともに強く、こうして掴まっていないと立っていられません!」
「川の水位などについてはいかがでしょうかー?」侑里の言葉尻が下がって、私と目が合うと、応えようとした朱花が口を開いたところで「朱花さん?朱花さん?中継が不安定なようですね…朱花さーん?」
「は、はい!」
「朱花さーん…だめみたいですね、一度こちらに引き取ります」
「えっ」
「朱花さんありがとうございます、一度スタジオに戻しまーす」

「最後まで責任もってやりなさいよ」
「見切り発車で始めちゃった」
「あなたも簡単に乗るからヤケドするのよ」
「私⁉」先客たちの姿はすでに無かった。「目」の向かいの辺から帰ったのか。侑里は目いっぱい腕を伸ばし裏返しの携帯で何枚か写真を撮った。
「じゃあ今回侑里が写真係ね」
「ええ、ストレージ危ないのに」
「後でアルバムで共有しておいて」
「うん」出先での写真は、もちろん各々が好きなものを撮ればいい。それでも、いつからか一人係を決めておいて皆が欲しがるような記念写真の類は任せおくことになっていた。とにかく撮ったものは残さず共有のアルバムに上げておいて、それぞれ後から写りの良いものをより分けて自分の端末に落とす――例えば旅行ならその日のうちに一日の写真をそれぞれアップしておけば投稿用の素材にも困らないのだが、たくらみがある手前急かすのは少し気が引ける。侑里は、何枚か撮った写真を一人で確かめると、猫の手に引っぱり上げた袖で液晶についた雫を拭った。
 下りて来た道を上る。跳ねるように下りて来た時には見えていなかった道のうねりがよく分かる。一番後ろを歩く侑里が口を開いた。
「前話したじゃない、K先輩のこと」
「誰だっけ」
「理工の人?」
「そうそう」
「ああ、それで?」
「前話したのはさ、確か点字ブロックを辿るゲームのことだったと思うんだけど、」木漏れ日が限られた階の先にぼんやりと光のしみを落としている。私はそれを踏みしめたつもりで、靴先の汚れを初めてのことのように知る。
「なんだっけ、目を瞑って点字ブロックの敷かれた道を歩くのだっけ」
「そうそう。先輩って、いつも大学から駅までの間を一番近い道じゃなくて、少し遠回りにはなるけれど人通りの少ない真直ぐな道を選んで歩いてたんだって。それで、」
「それで?」
「それで、ある時発見したらしいんだけど、彼がいつも歩く道の途中にある二つ並んだ自販機から次の交差点までの距離は、彼がいつもの歩幅いつもの速度で歩くと丁度信号が丸々二周?するんだって。それで先輩が考えたのが、毎晩(理工だから実験やら何やらで帰りは遅くなるみたい、あの通りは夜には通行人なんてほとんどいないからゲームにはうってつけだろうけど)、自販機まで来ると遠くに見える信号の光が赤に変わるのを待って、そこで目を瞑って、歩道の中央に敷かれた真直ぐな点字ブロックの帯に沿って歩きだすの。足裏のごつごつを感じながら、焦らずいつものペースで歩けば、ピヨピヨっていうあの音を二度聞き終わったその時目を開けば自分は交差点の前にいるはず、ってこと」
「あぶな」
「あなたもやったの?」
「やった、くだらないって思ったんだけど、実際やってみたらスリルがあって楽しいの」
「命知らずよ」
「真っ暗な中を足裏だけに意識を集中して歩くんだけど、そのうち自分が今どんな速さどんな歩幅で歩いているのか分からなくなってくるの、ちょっとしたパニックって言ってもいいかもしれない。一度一人でやったとき怖くて途中で足が震えちゃって、思わず立ち止まって目を開けたらまだ半分も来ていなくて、胸がばくばくしてるの」
「ちょっと面白そう」
「ここではやめてね、一番上のあなたが転んだら私たちまで巻き添えになるんだから」
「でも不思議なのがさ、一度先輩の言う通りの二周で自販機から渡り切ったことがあったんだけど、すごく満ち足りたような気持で後ろを振り返ると、今まで自分が歩いてきたはずの道が急によそよそしく感じられて、ふいに、その道を急いで辿ってみたくなった。歩き直したくなったの」
「へえ」
「別に目を開けて普通に歩いていたって何の代り映えもない道だよ。歩いていたとさえ意識していない道だったんだろうけど、知らずに過ぎてきたことを知るとどうにも取り戻したくなるのかな」登り切った先の駐車場には、私たちのセダン一台しか停まっていなかった。半端な角度で止められたワイパーが手を掲げた親しみに見える。

「さっきの滝で動画撮るの忘れたね」
「ああほんとだ」
「戻る?」
「でもまあいいか、しばらく来たもんね」
「戻れないことはないけど…」
「いいよいいよ、そのまま行って」畑でも森でもない、荒れるに任せた青い原に挟まれた国道がしばらく続いた。私雨を逃れて越えた峠の下り坂が、緩やかに上っているように感じられた。どこかに頭を突っ込んで折り返すことはできそうになかった。
「そうだ、去年撮ったのがあるじゃない」ハンドルを握ったまま、朱花が言った。私はふと息を止めて、後ろの侑里の気配を窺った。侑里は、少し重くなりかけた沈黙に寄越された役割を知って、たしかに!と上ずった声は空回りに過ぎた。それでも、強いた私を責める目を投げかけることはなかった。いや、そうであったとしても後ろにいたから気がつかなかっただろう。
    そのうち右手が大きく開けた。道の駅にしても、この一帯のそれよりはるかに立派だった。車の出入りが多く、車線を跨ぐのもあって歯がゆい思いがしかけたが、ちょうど前を走る軽自動車がウィンカーを出した。私はそれを見計らって、トイレ行きたい、と扇形に磨かれた視界からそれらしき建物を探した。
(つづく)


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