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波穂子⑥

 藍は、瓶に映った異形の顔を覗き込んだ。ふと緩んだ表情がそのまま崩れて涙があふれる。おねえちゃんの温めていった味噌汁の匂いがしょっぱくて、それで二三回わざとえずいた。
「好きにならなきゃよかった」アルバムの最後の曲がかかり終わって、もう終わりって分かっているのに、ひっかくような空転の音に何かの続きを期待してしまう。沈んだソファにへばりついた身体をはがして、プレーヤーの停止ボタンを押した。今までサブスクばかり使っていたから、こうやってCDを買うのは初めてだった。すぐにまた聴くことになるはずなのに、取り出したディスクをケースに収め、ジャケットの裏のシールを爪ではがした。
 自分のつけた温かいくぼみにもう一度腰を下ろす。テーブルの上、背の順に並んだリモコンの向こう、砂の詰まった瓶の中に今日も変わった様子はない。

 「2号」は一昨日の晩からずっと顔を出さない。ちょうど八月に入った日だった。毎晩欠かさず霧吹きで湿らせる砂の割れ目から白巻貝の頭がわずかに覗くだけで、それがもう二日も動かないのを見るときっとあれなんだろう。取り替える砂が必要と聞いてAmazonで注文した石垣島の白砂は、一度に使う量は思ったほど多くもなくて、三分の二ばかり残ったのを袋の口を縛ってたしかシンクの下、塩とか砂糖とかその横に置いておいたんだ。横には、そう、ルピシアで買ってきておいて開けることのないハーブティーが眠っていた。

 また横になり、長くはみ出た足の指をうんと伸ばしレースのカーテンの裾を引いてみる。しまいまできちんと閉じなかったその隙間から射しこんだ日が、ローテーブルの足元に牛乳寒天を引き延ばした細い平行形の光溜を落とした。テレビの横でおし黙っているのは腰元でまとめられた緑のカーテンだった。姉さんが遮光でないのを買ってきたのを、二人とも寝るのは自分の部屋なんだからいいでしょともっともなことを言って、それがここ数日ソファでしか眠れない藍にとってどれだけつらいことだったろう。入れるはずのない予定をそれでも(ない)と確かめてから、藍は立ち上がってカーテンのフックを外しにかかった。作業があらかた終わってから窓を開けていないことに気がつき、エアコンは切らずにサッシを引いた。風のぬるさに内と外の境目は溶けて、(ああ、今日も涼しい一日だったんだな)と初めて気がつく。知りたくもないことを律儀に知らせてくれるpixelの、できれば溜めたくない通知も、たぶんもうスクロールバーの右端まで埋めってしまっているだろう。どれだけ多くのメッセージが届いていても、そのどれもが本当の意味で僕に向けられた訳じゃない。そう知りつつも投げ出せないこの掌の震えを、できれば今日だけは「弱さ」と呼んでほしくなかった。藍はヘアピンのような白いフックを握ったままその場にへたり込み、啼き続ける携帯の温もりを確かめるように胸に強く押し当てた。

 「ああ、」わざと声を混ぜて息をついてみる。喉の奥にはずっと何かが詰まっていて、さっきみたいに気を緩めるといつでも溢れてしまうこの涙は、汗のように、頬を伝えば塩の跡をつけるようでそれが嫌だった。おねえちゃんにそれを見とがめられでもしたら…今の自分が鏡に映る自分の顔を見落とし無く点検できるかどうか疑わしかった。それでも、波穂子さんだったら…ああ、もうそんなことを心配する必要もないのに。彼女がいつか「パスタみたい」と言ったフレグランスの束からlilyの烈しく匂ったのを、鼻は詰まっているのにおかしいなと思った後で、ああ、とまたすぐに声にならない声が漏れた。僕が、僕の部屋が、波穂子さんのあの癖っ毛にまとわりついたこの強すぎるこの花の匂いが、まさかこれまでずっと彼女を苦しめたんだろうか、胸を詰まらせたんだろうか。突然告げられた別れの言葉のどこかに自分の省みるべきところがあって、こうしてこじつけてでも何かの遠因を自身の弱さに求められたのならまだ少しは気が楽なのに、それすらも思い上がりなのだと、「2号」の頭はやっぱり動かない。涙がまた一筋、朝にひかれた白い路を伝ってシャツの胸に落ちた。

 「台風だって」母の声がした。波穂子は洗面台で髪を梳かしていた。自分に向けられたのだと知りながら答えはせずにいると、「あんた、合宿は大丈夫なの」と追いかけてきた。波穂子は身をひるがえすと階段を駆けあがりPCのメールボックスをひっくり返した。「グループワークで使う『伊豆にまつわる文学作品』の選定について」という題のメールの上に同じ送り主から「合宿延期のお知らせ」が届いていた。
「あんた、一回東京帰る?」
「え、なんで」
「だって、携帯」
「ああ…」セミナーハウスは高台にあるため嵐に海が荒れてもたいした被害はないだろうが、後ろ倒しになった一週間あまりを携帯無しに過ごすのかという話だった。波穂子は、「ちょっと考える」と言い、靴箱の上の自転車のカギを取って爪先を叩いた。
「空気入れどこだっけ!」
「納屋の中」その鍵は、と訊こうと手をかけると錆の浮いた戸は大きな音をたててそれでも開いた。波穂子はべたついた手を忌々しく思いながら、中学以来ほとんど使っていない自転車の両輪に、いやらしくみっちりと空気を入れた。
「パンクとかしてなかった?」心配して出てきた母にカギを渡すと、彼女はその手を前掛けのポケットに突っ込み「ああ、でも和志くんが使ってたわ」とみにくげに一番高いところまで上げたサドルに目を留めた。
「和志くんって、あの」
「清志くんの弟の。お兄ちゃんのがないからって、ちょうど探してたんだって。あんたそのときもう使ってなかったから」
「あれ、あんたそのときもう大学行ってたかな」波穂子は何度か逆にペダルを回し、その涼しい音を確かめると財布をカゴに投げ入れハンドルを握った。
「あんまり遠くまで行かないでね」
「大丈夫、そしたらまた電車のときみたいに番号思い出すよ」夕まだきの町はこれほど静かだったのか。波穂子は一人胸を打たれた。どこからか早風呂に歌う声さえ聞こえてきそうだった。しかしそれも、誰かに「前から変わらずこうだった」と言われたら頷いてしまうほどのものなのだろう。波穂子は、こうして自分が生まれ育った町についての記憶が次第に薄れて来ていることに、きっと口にはしない類の、そこはかとない誇らしさのようなものを覚えた。

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