8/3 鼻がきかない

 日曜日に熱が出た。検査をするとコロナだった。初めて罹った。

 その前の木曜日、午前中の講習が終わってその足で実家に帰った。週末に父方の里へ帰るその前に、石和に寄っていくことになっていた。
 宿に着いたときからもう弟は頭が痛いといってしばらく部屋で寐ていた。夜遅く、四十度近くまで熱が上がったので名古屋行は取りやめ、次の朝そのまま引き返して来た。
 日曜の明け方から喉が痛かった。移されたかと思ったら果してそうだった。熱はそこまで上がらなかったが上がったり下がったりを繰り返すのでそのたび汗をかいて疲れた。次の日には父と母にも移り、その意味ではやはり帰って来てよかった。
 月曜の夜に今の部屋に帰って来た。臥せっている親を残してくるのも気が引けたが、自分がいてもいらぬ気苦労をさせるだけだろうと、その実長らく空けている部屋の様子が気にかかっていたのだった。まさか火の用心も戸締りも今更それが気になるのでもないが、この暑さなので生ごみも出しておいたのだが、とにかく少しでも早く淀んでいるであろう空気を入れ替えたかった。帰ってみると、夜遅くだったからかとくに臭いでもなかった。むしろ新居の匂いが戻っていた。
 火曜の朝はたいへんつらく、汗みどろの寝起きにお急ぎ便で入用のものを注文し、病院の予約を取り、解熱剤を飲んでまた少し眠ったら、通り雨を降らした雲のめぐんだ涼しさを心底有難く歩いて行き、食べ物を買い込んで部屋に戻った。夜にかけてまた熱が上がった。

 鼻がきかなくなったのは水曜の朝からだった。はじめは詰まっているだけかと思っていたがどうもおかしかった。いくらかんでも駄目だった。症状として聞いていたことではあったので驚きはしなかったが、おかげで飯がまずい。
 熱いものは湯気もあるから全くだめで、ぬるい缶詰などであれば味も濃いので少しはましだが、おかゆやカロリーメイトは食べられたものじゃない。お茶も珈琲もただの苦い汁で、貰ってきた桃もそらぞらしい甘さだ。
 それも、ではただ(鼻をつまんだときのように)匂いがしないのかというともっと込み入っている。鼻をつまんでいても口の中に含めば内から匂いが抜けるだろうが、今回は全く臭細胞がだめになっているのでそれもない。熱さや湿り気を感じるに過ぎない空気の抜ける穴は、寝起きに窓を開け放ってみても、夏の朝の煮える緑の匂いさえ感じ取ってはくれない。
 まったくかたわになった鼻なのだが、それに慣れてきた今朝、泥のようなおかゆに缶詰のさば味噌を当ててすすりながら、次のようなことに気がついた。さば味噌でもいいが今手元にあるので書くと、たとえば一枚のせんべいをかじったとする。するとほんの一瞬、コンロの火を点けようとして中々うまくいかないときのように、醤油の匂いのような何かがふわっと湧くのだが、それがすぐに立ち消えてしまって後にはじかに舌に感じる味しか残らないのだ。しかし一瞬感じるあのどこか匂いというものの「予感」に似たそれは、全く「予感」のまま消えてしまう、全くもどかしいもので、風味としてはあまりにか弱く、乏しい。密雲不雨という語はまったく正しくないが、とにかく、予感だけがあって本来それに続くべき事が起らないというのは、とかく新しい発見ではある。

 たわむれに、この予感について少し考えてみると、あけぼの山際が白むように、雨の降る前に風が立つように、言葉を吐く前にすっと息を飲むように、あらゆる動きの前にはそれに先立つ予感がある。たとえば朝鮮のチンダルレなどは春のそれとして名高く詩にも謳われたが、それはあまりにあけすけな色であって(だからこそ尊ばれたのでもあろうが)、匂いにもそれがあるとは、これまで全く知らずにいた。考えたこともなかった。ことによっては、まとまったものをも支える主題の芽にもなろうか。

 しかしまあ、思えばこれはたいしたものではない。「気配」というよりも既に知った匂いの「記憶」にすぎない、というのが結局のところだろう。げんに、今どこか知らない南方の国の知らない料理を出されたとして、その臭いの予感をかぎ取ることは、このかたわな鼻ではできない。ただ、本式に匂うのに先立って香るからそれを気配としたくなるのだろう。むろんこれは白々しい現実に逆説を立ててそこに秘密をかぎ取ろうとするいやしい欲ずくの鼻には違いないのだから、少なくとも今はじっとしていたほうがいい。しかし、やっと読み終わった『暗夜行路』のクライマックス、大山の来迎を、いつか大学の授業で老教授がその夜明けの描写の遙かな時間を隔ててもなお正しかった作家の記憶の良さに熱弁をふるっていたことを、土壇場で思い出し、はあこれがと三嘆しながらその日を思い出として味わうように読んだこと、翻ってその内容として謙作が眺めたその日の出が、直後の急病のあたかも予感としか読めなかった昼前のこととが、食べる愉しみを奪われている私の、束の間の慰みになりかけたとして。

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