見出し画像

波穂子③

 その晩、久しぶりに実家に帰った波穂子は、早々にシャワーを済ませると二階に上がった。髪を乾かすときに口ずさんでいたあの歌――「夏の電車と」。タイトルがすぐに出てきたことが驚きだった。どのCDにも収録されていないんだったかな、教えてくれた人の顔が浮かんだ。

 引っ越す前に受験用の参考書などは全て処分してしまっていたから、部屋は思ったよりもよく片付いていて、机に並んで立ててある高校の教科書やノートはただ懐かしかった。座面のすり減った椅子に掛け、こんなにも座り心地が悪かったかと驚いた波穂子は、立ててあるその中から「国語総合」と赤色のノートに手を伸ばした。波穂子の所属する学科では、毎年夏に希望者を募り、関東圏にいくつか設けられた大学のセミナーハウスを貸し切って合宿が行われることになっていた。
 当然大人数で集まるのを嫌う波穂子は初め不参加に丸を付けてフォームを出したが、一定数参加者が集まらないと学部からの補助が下りないという、幹事のしつような勧誘にあい、それでもやはりと決めあぐねていたところ、今年の合宿が川奈のセミナーハウスで行われると聞いてすぐに考えを直した。元々面倒くさがりな波穂子も、あの温泉旅館のようなところに無料同然で泊まれ、しかも最低挙行人数を埋める救世主としてありがたがられることを思うとそう悪い気もしなかった。それほどの頑なさしかない人嫌いであったし、名誉心に通じるものをも自身感じた。そうだこの際帰省まで一緒に済ませてしまおうと、晴れた気持ちで決めたのが期末試験の始まる頃だった。
「ちょっと、波穂子!」姉の声だった。波穂子は教科書とノートをベッドに抜け出すと、階段を駆け下りた。
「来るなら来るって言ってよ!」波穂子は姉の目の前まで駆け寄ると、それからはどうして良いか分からず気まずそうに一歩後ろに下がった。
「今日帰ってきてたの」
「毎週末帰ってくるわよ、お母さん一人なんだし」いつもの癖で壁掛け時計の下に目をやるとあの工務店のカレンダーの今年版が今もそこに貼ってある。今日の日付に丸が打ってあるのを見て気まずさを覚え、姉に向き直ると「渡辺さんは?」と思い出したように訊いた。
「家。明日朝から野球部の地区予選なんだって」波穂子は公立中学校の教師をしているという白いスーツ姿しか知らない義兄の話を遠い国で起こっていることのように聞きながら、姉の容姿が少しも変わらないことに出処の分からない不満を覚えた。
「てかなんでLINE返さないのよ。向こうで買って来て欲しいものあったのに」
「本当にごめん、電車乗る前に気づいたんだけど、戻る時間なくて」
「でもお母さんとよく待ち合わせられたわね」
「昔覚えさせられたのをまだ覚えてて、それで新宿駅で公衆電話探して」
「機転が利いたね」
「もう何年ぶりだろう、あれ使ったの」波穂子はソファに腰を下ろすと、何という目当てもなしにテレビの電源を入れた。チャンネルは殆ど東京と変わりなく、時折差し込まれるローカルのCMがはじめのうちは微笑ましかったのも、ほとんどが向こうと同じであることに気がつくと録画一覧に回した。
「そういえばannaどうだった?」
「最高だった、笑いすぎて涙出たよ」
「いいなあ」アメトークのオープニングまで観たところで今週のを既に向こうで観てきたことに気がつき、波穂子はリモコンを姉に渡すと冷蔵庫でお茶を汲みリビングを後にした。
「合宿いつからだっけ?」
「しあさって」
「明日何かやるの」
「うーん、わかんない」おやすみ、という二人の声を背に聞きながら、波穂子は階段を上がっていった。



 鍵を回すと、ばたばたと駆けてくる音がすぐ目の前まで迫って来、こちらの引いたドアノブに勢い余った手が胸に飛び込んできた。
「××さん⁉」潤んだ目でこちらを見上げるその人の顔に見覚えはなかった。
「ああ、ごめんなさい」
「いえ、こちらこそ…」靴を履いたまま上がろうとすると、その人は「どうぞ」と雑巾を差し出してくれた。その透き通った低い声は、熱い砂に撒いた水のように快く耳に染みた。
「もう長いんですか」
「はい、でももう慣れましたから」部屋はよく掃除が行き届いていた。台所は銀光りのするほど磨きこまれ、奥の窓越しにプランターの丈の低い黄色の花が風に揺れていた。
「何ていう花ですか」返事はなかった。時計のない部屋に熱を帯びた冷蔵庫の唸り声だけが響いていた。
 その人が出してくれたお茶を一組の椅子に腰かけ向かい合って飲んだ。
「おいしいです」
「ありがとう」小鳥のように尖らせた唇に、思わず窓の外へ視線を逃がした。単色の街並にビルの尖端がいくつか突き出ていた。空は、人と別れてきた瞳のように水を含んだ灰色で、もやが絵の具を溶かしたように素早く屋根の海を這っていった。
「やっぱりここからだと眺めがいいですね」
「はい。でも、天気が悪いから」
「このところずっと」
「そう」切れた言葉はテーブルの上に落ち、戸惑うように転がり、砂糖の瓶にぶつかってやっと止まった。
「いつまで待っているんですか」憐れになって訊いてみると、「待つ?」とその人は目を丸くした。
「別に誰を待っているわけじゃありません」
「でも、ここは元々あなたの部屋じゃなくて」
「うん、そうね。でも今はひとり」
「だったら、やっぱり帰りを待っているんじゃないんですか」その人は静かに微笑むと、二人を隔てるテーブルの縁を優しく指でなぞった。
「素適な部屋でしょう、ここ」よく見ると、テーブルの表面にはいくつもの細かな傷が入っていて、それでもその人は、ひとつひとつの傷の深さをそらで覚えているように、いとおしそうに撫で続けるのだった。
「帰りを待たなくたって、私はずっとここにいてもいいんでしょう」喉まで出かかった声を飲み込んで、その人の続きを待った。
「私ね、この部屋がとても気に入っているの。だから、居られるだけずっとここに居ようって」
「いつまでここに居てもいい。いつか気が変わったらその日に荷物をまとめて出て行っていい。今はそれを少し淋しく思うけれど、そんな気持だって変わる日が来るのかもしれない」
「そんな日が来るのを待っているんですね」
「まさか!だから待っているわけじゃないって」その人の眼は、夢の中でも優しかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?